[生の事実]
俺と彼は、昔からの友人というか、腐れ縁みたいなものだった。
とはいえ一緒に遊んだ記憶もないし、歳も俺のほうが2つ上。
貧乏な母子家庭の俺と、高名な学者の父を持つ彼とは、家が近所、という以外にロクな接点すらなかった。
それなのに、今はこうして共に並んで酒を飲む仲になった。
経緯を話せば色々とあるようで、それほどのドラマがあったわけでもない。
初めてまともに話したのは、彼が有名校の受験に失敗して、泣いてた時だと思う。
『試験1回失敗したくらいでおおげさな』みたいなことを言ったら、胸倉掴まれて殴られた。
『ロクに学校にも行かずにぶらぶらしてるだけの奴に何がわかる』って言われて、俺もカチンときて殴り返した。
次の日、彼の両親が俺が不在の間に俺の家に押しかけてきて、『人を殴るなんてどんな教育をしているんだ』と俺の母親を散々罵倒した。
帰宅した俺がその様子を見て、耐えかねてキレそうになったところに、後から来た彼が割って入り、――自分の両親を殴って止めた。
『先に手ぇ出したのは俺だ! 他人を殴ったのが親のせいだってんなら、あんたらだって同類だろうが!!』
そんな風に怒鳴った彼は、俺と俺の母親に向けて、本当に申し訳なかったと頭を下げたのだった。
「……何ぼーっとしてんの。酔った?」
「うんにゃ、……昔のこと思い出してただけ。あの、お前が自分の親父さん殴った時のこと。」
「あ……?……あー……あれね。……忘れてたわ。」
「あの時と比べたらほんと丸くなったよな。」
「まあ、ね。子供の相手ばっかしてたから。」
「…………。」
「ジェニファー、おかわり。」
「もう?ちょっとペース早すぎない?」
「へーきへーき。まだいけるって。」
…………。
それから、俺も悪かったって謝って。
なんだかんだで、友人みたいなものになった。
それで何をすると言っても、すれ違ったら挨拶して、たまに飯を食べたりするくらい。
2回目の正直で医学部に合格して街を出て行った彼と、母親の面倒を見ながら仕事に明け暮れる俺では、やっぱり住む世界が違いすぎていた。
再会は彼が大学院を卒業して、新米の医者として街に戻ってきてからのこと。
その時にはもう俺の母親は他界し、辛い時期を支えてくれた女性と籍を入れ、子供も生まれていた。
『おめっとさん、お前には勿体ない美人さんだね』なんて祝福を貰ったのを覚えている。
『――昔っから夢があってさ。』
『何。』
『世界のあちこちを旅して回るの。いいことだと思わない? だってせっかくこんな広い海に面した街で生まれたのに、何処にも行かないって損だろ?』
『損って感覚はよくわかんないけど、いいんじゃないの。』
『でもさぁ、嫁はこの街に残りたいって言うんだよね。娘もまだ小さいしって。』
『そりゃそうでしょ。』
『でも諦めきれねぇんだよなあ……。』
『じゃあ一人で行けば?』
『――へ。』
『話聞いてる限りだと別に家族で行きたいってわけでもなさそうだし。たまに戻ってきて土産話でもしてやればいいんじゃないの。』
この時の彼は、多分、冗談で言ったのだと思う。
だけど俺はいいアイディアを貰ったと早速妻に直談判し、連絡先はちゃんと伝えるだとか、数年に一度は必ず帰ってくるだとか、そんないくつかの条件と引き換えにあっさりOKを貰ったのだった。
「……きーてる?」
「あ、ああ。ごめん。何?」
「っとに、……あんのスティーブンって若造がさぁ、俺のこと人でなしだとか言いやがるんだよ。そりゃあさぁ?あの子の苦しみよう見てたらそう言いたくなるのもわかるよ?でもさぁ?それがあの子の希望だったんだって何度言っても理解しやがらねぇってんで、」
「あらあら、始まっちゃったね絡み酒。」
「……いーんだよ、こいつ酒でも飲まないと愚痴の一つも口にしやしないし。」
「きーてんのかよ!」
「あーはいはい、聞いてる聞いてる。」
転機、あるいは、間違いの始まりは、俺が異国の旅を満喫してこの街に帰ってきた時のこと。
10年前――俺が28歳の時だった。
彼は、一言で言えば壊れかけていた。
患者の女性と恋に落ち、つい数週間前に亡くして。
それでも泣きごとひとつ言わず、寧ろ今まで以上にたくさん働くようになったのだと、俺は看護師のひとりから聞いた。
仕事を詰め込んでいた彼にようやく会いに行けたのは、俺が帰郷した3日後。
それも、たまたま晩飯を食べに病院の外に出たところを無理やり掴まえるという形でだった。
『――ああ、なに、帰ってたの。』
『……おうよ、3日も前にな。……ってか、なんて顔してんだよ、死相でてんぞ。』
『死相?……ふ、なぁに、そんなこと言うのあんたが初めてだよ。』
『周りなんにも言わないのかよ、どうかしてんぜ。……ったく、ちょっと積もり積もった話したいんだがね、次の休みいつ?』
『次?……向こう2週間は休み入れてないよ、俺。』
『はぁ!?バカかお前、死ぬぞ!』
その時の彼の表情を俺は今でも忘れられない。
見たこともないくらいに、虚ろな表情だった。
『別にいいよ。働きすぎて逝っちゃうなら、それも、さ。』
馬鹿野郎、――そう思ったときには、手が出ていた。
昔よりずっと弱い力で頬を平手で打っただけなのに、彼はあっさりと地面に転がる。
彼は驚いたように目を丸くしながら打たれた頬を擦っていた。
俺もまさか平手打ちで倒れるとは思っていなくて、随分と慌てた気がする。
結局、そんな状態の彼をまた仕事場に送り返すなんてできず、
『飯の途中で倒れた』なんて一歩間違えば本当になっていただろう嘘を吐いて強引に翌日休暇を取らせ、そのまま彼を家に送ることにした。
だが、彼の足は動かない。
『……帰りたくない。』
『なんだお前、女か。誘ってんのか。』
『そうじゃねぇよ、…………家ん中、一人でいるのが、嫌で。』
この時には、彼の両親も既に他界していた。
なんでも異国を旅行中に物盗りに襲われたとか、なんとか。
だから彼は金持ちの両親が遺した広い家に、たった一人で住んでいた。
『家帰るくらいなら、まじ、ぶっ倒れるまで仕事してたほうが、マシ……。』
『死ぬ気かお前は。……わーったよ。じゃあ一緒にいてやっから。俺の家と宿どっちがいい。』
『…………宿。あんたの家族に、迷惑かけたくないし……。』
手近な宿に彼を半ば引き摺るような形で入り、ベッドに転がす。
ベッド縁に腰掛けてやはりどこか虚ろな、そして少し痩せた表情を見下ろしながら俺は尋ねた。
『……原因は聞いてる。女死んだんだって?』
『…………。』
『こう言っちゃなんだけどさ、お前がそれでそんなボロボロになってたらその女も喜ばねぇよ?さっさと立ち直んねぇと。』
『……仕事はしてるだろ。』
『そうじゃねぇよ、そういう表向きな立ち直り方じゃなくて、もっとこう、根本的にだな?』
『……ちゃんと生きてるだろ、飯だって最低限は食ってるし、睡眠だって仮眠室でだけど取ってる。』
『笑ってるか?心の底から、面白いって思って。』
『…………。』
ずっとだるそうに俺の言うことに相槌を打っていた彼が、急に眉間に皺寄せて睨んできた。
と思ったと同時、俺の顔面に枕が叩きつけられる。
なにするんだ、と声をあげる前に、彼の悲痛な叫びが部屋の中に響き渡った。
『――笑えるかよ!!好きな女が死んで、目に映るもの皆灰色で止まって見えて、……なのにどうして、何がおかしくて笑えるんだよ!!!』
『皆言うんだ、……死んだあいつも言うんだ。泣くなって、笑えって。でも、わかんねぇよ。』
『笑い方なんてわかんねぇよ。――どうしたらいいのか、わかんねぇよ。』
俺にぶつけられた感情は、怒り、と言って差し支えなかった。
彼は苛立っていた。ともすれば枕を破きそうなくらいに強い力で、何度も何度も俺に当たった。
痛かった。でも、その痛みは、彼が心に抱え込んだものなんだと。
気付いた俺は、彼の拳を、ただ、受け止めることに徹した。
その間一度も、彼は泣かなかった。
辛いなら泣いていいんだって言ったら、首を横に振って。
泣かないって約束したからと力ない声で呟いた。
『人間なんだからさぁ、大事なヤツ死んだら泣くだろ。悲しむだろ。……当たり前のことじゃん、そんなの。』
『…………でも、念押されたよ。俺ぁ泣くなって、涙で視界がぼやけたら、あいつのこと見えなくなっちゃうかもしれない、って。』
『……ひでぇ女だな。』
辛いときに涙を流せないなんて、ただの拷問だと俺は思った。
他にも、彼が女としたたくさんの約束は、どれもこれも、彼をまるで聖人か何かのように仕立て上げるようなきつい戒めのように聞こえた。
そしてそれを完璧に守ろうとする彼もまた、馬鹿なくらいに、一途で、子供のようだと思った。
『……じゃあ、その女の教えに反しない範囲で楽になる方法教えてやるよ。』
子供のままじゃ、生きていけない。
脆弱で無垢な彼を、そんな言い訳で俺は汚した。
酒と、
煙草と、
――セックス。
酒で程よく理性を失った頭のまま、俺は彼を抱いた。
泣けないなら、啼かせてやる。そんな馬鹿なことを囁いたように思う。
『お前、奥さんは、いいの。』
彼から聞こえた抵抗らしい抵抗の言葉は、それだけだった。
それから暫く、彼の休暇が来るたびに俺は彼の家に泊まり、夜を過ごした。
好きとも愛してるとも一度も言わない関係だった。
ただ、泣いている子供の頭を撫でながら傍にいるような感覚で、
人の腕の中でしか啼けない年下の男の面倒を見ていた。
『もう来なくていいよ。』
彼から突然そう切り出されるまで、半年。
その頃には、彼はもうだらしなく無精髭を生やし、くだらない冗談を言っては笑い、酒と煙草がよく似合う――大人になっていた。
「――――……、……すー……。」
「……あらら、ケイ君寝ちゃった。どうする?車呼ぶ?」
「歩いて帰れるから俺が送ってくよ。」
「あらそう?じゃ、お願い。……今夜はもう、お店も閉めちゃうわね。」
それから何度か、俺は旅に出て。
彼は彼で医者として、たくさんの生と死に向き合ってきた。
だけど、彼がここまで弱っているのを見るのは、10年前のあの日以来だ。
「ま、今は、俺もちょいと弱り目なんだけどね。」
この街で流行った、子供が死に至る病。
俺の娘も先日この病で亡くなり、彼は同じ病に罹った子供たちの最期を看取るという仕事を果たしてきたばかりだった。
10人以上の子供の死をただ何もできずに見守るというのはどんな気持ちなのだろう。
想像はできるが、想像でしかない。
ただ、彼がこうして眉間の皺を増やして帰ってきたということだけが、俺にも解る事実だ。
「……んぁ、……なに、ホレー……ショ、……?」
「ああ、起きた。……今日さ、ケイん家泊まってっていい?」
「……好きにしなよ。」
「ついでにさぁ、……シていい?俺、昔よりは衰えてるかもしれないけど。」
「あぁ?…………ったく、……好きにしなよ。」
「さんきゅ、……悪いね。」
「謝るくらいなら最初からするなって言葉、知ってる?……いいから、行くよ。」
これは何も生まない、不毛な関係なんだろう。
だけど、マイナスとマイナスを掛ければプラスになることだってあるわけで。
彼の愛する者たちが、彼に光の下で正しくあれと祈るなら、
俺は真逆の方向から、彼の陰の部分を支えられたらと思う。
理由はと聞かれてもきっと明確な答えなんて何一つなく。
ただ、そうしたいからという事実が俺の中にあるだけだ。
「……辛くても、苦しくても。誰かのために、誰かの分まで、俺は生き続けなきゃいけないんだよ。……そう、約束したからさ。」
ベッド傍の灰皿に灰を落としながら、白く細い肩を揺らして笑う彼は、やはりどこか、寂しげだった。
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