僕が、生まれつき目が悪いのだと知ったのは3歳か4歳の時だった。
僕にとって遠くが見えず視野が狭いのは当たり前のことで、母に連れられて大きな病院で検査を受けるまでそれが病気だとは思いつきもしなかった。
いや、お前は人より目が悪いのだと教えられてもまだ実感はなかった。
大人たちは僕の見えないものが見える。でもそれは僕が子供だからで、僕も大人になれば病気が治って、彼らが見えているものが見えるようになるのだと信じていた。
このまま、視力は回復せずやがて全盲になるのだと、僕が僕の病気を完全に理解するのには更に1年近い月日を要した。


「そうか、エリアスの視力は戻らんか……」
「ええ……。……お医者様が、そう。どうしましょう、あなた」
「なに、心配は要らん。家はノックスが継ぐ。エリアスは普通に育ててやればいい」
「でも、近くの学校は設備が不十分で……。……それに、人とは違うあの子が受け入れられるかどうか……」
「ならば家庭教師をつけて家で勉強させてやればよかろう。あの子に不自由はさせてやるな」


少しばかり心配性な母と、母の不安を少しでも和らげたい父のお陰で、僕は学校に通うべき年齢になっても毎日を広い家の中で過ごしていた。
毎日僕だけの家庭教師に勉強を教わって、毎日同じ使用人たちのお世話になった。
視力をこれ以上悪化させないようにとテレビを禁じられていた僕は、やはりそれを当たり前のことだと思っていた。


「あなた、どうしましょう。エリアスはすくすくと育っています。でも、友達が1人もいなくてあの子は大人になってもやっていけるのでしょうか……」
「エリアスに友達を作ってやればよいのだな、ならば私に任せなさい」


暫くして、僕には1匹の「犬」が与えられた。
調教師によって最低限の躾を施されたその犬の名前は、イアンと言った。
イアンは、僕よりずっと大きくて、僕の兄さんくらいの年齢の犬だった。

「今日からこのイアンが、お前の友達だ。だが、犬だからな。甘やかしすぎないよう、ちゃんと躾けるんだぞ。まずは、父さんが躾の仕方を教えてやる」

そう言って父さんはイアンに鞭を振るった。イアンは痛いとも言わず、ただじっと耐えていた。
僕は、父さんの見よう見まねで犬の飼い方を覚えた。
僕は、イアンと友達になることで、ひとりぼっちではなくなった。






――それは、僕が9歳の時だったと思う。
6年ほど海外留学していたノックス兄さんが、家に帰ってきた日のことだった。

「イアン!ノックス兄さんだって!出迎えにいこう!」
「わんっ」

イアンはその頃にはもう、人語を話すのをやめていた。
家の中では当たり前のように裸に茶色の首輪ひとつつけた状態で、それを恥ずかしいとも思っていないようだった。
僕はといえば視野はますます狭くなって、数メートル圏内よりも少し遠いものはぼやけて見づらくなってしまっていた。
だから、部屋の外をたくさん歩くときはイアンを盲導犬として連れて歩くようになっていた。


「ノックス兄さん!」
「エリアスか?大きくな……っ」


ノックス兄さんがどんな表情をしていたのか、この時の僕には見えてはいたけど理解できなかった。
なにか、とても恐ろしいものを見たような、凍りついた表情。その視線と、兄さんの指先はイアンに向けられていた。

「エリアス、……その、彼は?」
「イアンだよ。僕の友達で、犬!ねっ?」
「わんっ!」
「…………うそ、だろ……?」

僕には、兄さんが何を嘆いているのかがわからなかった。
だって僕にとって、犬と友達になるのは、当たり前のことだったから。














「……信じられない……!!」

エリアスが眠ったあと、俺は父に直談判に行った。どういうことなんだと。
父は悪びれもせず、エリアスに友達を作ってやっただけだと答えた。
他人の人生を犠牲にして、何が犬だ。お前は犬の良さを知らないからそんなことを言うのだ……。
6年ぶりの会話も、やはり平行線に終わった。


いや、俺と父さんの価値観が元々かみ合わないのは今に始まったことではない。
妻の――母さんの目の前でさえ犬を可愛がる趣味など俺には一生理解できそうになかったが、父はそういう人間なのだと心のどこかで説得を諦めていたのも事実だった。
だが、弟――エリアスまで巻きこんだのはどうしても許せなかった。
エリアスはまともな友達の作り方も知らないまま、与えられた犬を友達にすることを「当たり前」だと思っている。
このままでは、どんな歪んだ大人になってしまうのか。想像するのも恐ろしかった。
やはり、海外留学などやめておけばよかった。いやせめて、もっと早く帰っていれば、俺がエリアスの傍にいてやれば。
後悔だけは尽きず、どうするのがエリアスにとって最善なのか。
……そして、どうするのがあの犬にされてしまった青年にとって幸いなのかを、煙草を吸いながら庭のベンチでぼんやりと考えていた。


「――わんっ」

だから、そこに彼が来たのは全くの不意打ちだった。危うく煙草の灰を腿の上に落としてしまうところだった。
いくら同性とはいえ、裸の人間が近づいてきたら誰だって動揺する。


「……ええ、と。イアン、だっけ。どうしたんだい?」
「わんっ、わんわんっ!」
「…………人の言葉は、もう、忘れてしまった?」

イアンは首を横に振った。覚えているし、通じてもいるらしい。

「なら、犬みたいに鳴くんじゃなくて人の言葉で喋ってもらえるかな。そのほうが、俺はありがたい」
「……くぅん……」
「……どうした?」
「くーん、くーん」


……埒が明かない。不本意ではあったが、俺は彼に命令することにした。


「……イアン、俺の前では人の言葉で喋ってくれ。これは命令だ。……いいかい?」
「…………はい」

搾り出すように話された人の言葉は、とてもとても、小さかった。

「よかった。さ、こっちおいで。折角月が綺麗なんだ。一緒に月見でもしよう」
「つき、み?」
「月をさ、綺麗だなーって眺めることさ。本当は、酒とか団子とかあるといいんだけど。流石にこの時間からじゃ用意できないし」
「だ、……んご?」
「あー、そうか。えっとな、団子ってのは餅……も説明がいるか。……こう、米から作った弾力のある食べ物があってだな、それにあんこ…………、ええと、あんこの材料はなんだっけ?豆ってことしか知らないぞ」
「????」
「すまん、ちゃんと調べてからまた説明し直す! とりあえず、こっち。隣座れよ」



イアンはベンチの上には上がらなかった。俺が勧めるとようやく登ってきてくれたが、それでも犬のような座り方をしていた。


「……なあ、イアンはいつからこの家にいるんだ?」
「…………さんねん、くらいまえ」
「その前は、何をしてた?」
「………………りっぱないぬになる、くんれん」
「……その、前は?」
「………………」

彼は首を横に振った。そんなものなど無いというように。

「そんなはずないだろ、イアン。生まれたときから犬だったわけじゃあるまいし。犬にされる前は、一体何してた?」
「…………、……だいがく、いくための、べんきょ」
「大学?何を学びたかったんだい?」
「…………しぜん、かんきょ」
「自然環境?へえ、面白そうじゃないか。将来は何になるつもりだった?」
「………………」
「……イアン?」
「…………おもいだす、やだ」

イアンはとん、と器用にベンチから飛び降りた。
そしてくるりと振り返る。


「わんっ」


犬の言葉は理解できない俺にも、それが彼からの拒絶であることはわかった。













「ノックス兄さん、ずっと家にいるの?」
「ああ。1人暮らしするつもりだったけど、エリアスが心配だから当分は家にいることにしたよ」
「やった!イアン!ノックス兄さん、家にいてくれるって!」


兄さんは、僕に優しかった。僕の犬にも、優しかった。
兄さんは犬を飼っていなかったけれど、時々、僕に犬のことを聞いてきた。
僕は、賢い兄さんにも知らないことがあって、それを僕が知っていることがとても誇らしかったので、兄さんに聞かれたことは何でも答えた。

「なあ、エリアス。犬って、夜はつないでおかないのか?」
「うん、繋がないよ。イアンはいい子だから、繋がなくても平気なんだ。それに、夜中にトイレに行きたくなったとき僕じゃあ暗い廊下をトイレまで連れていけないから……」
「そうか……」
「兄さんも犬飼うの?」
「いや、俺はいいよ。俺、ネコ派なんだ」
「そっかぁ」

僕は優しい兄さんが大好きだった。僕は僕の犬が大好きだった。
僕の閉じた世界の中には僕の大好きなものしかなくて、僕はその大好きなものに裏切られるだなんて思ってもいなかった。










「……イアン、今日も空を見に来てるんだな」
「…………うーっ、わんっ、わんっ!」
「お、おい吠えるなって。……エリアスには内緒で来てるんだろ?見つかって困るのは、イアンのほうじゃないのか?」
「…………っ」
「この間は悪かった。お詫びにチョコ買ってきたからさ、食べよう?」
「…………」
「どうした? ……言わないと、俺はわからないぞ?」
「………………、ごしゅじ、さま、ちがう、たべもの、もらっちゃだめ」
「えーと?……エリアス以外から食い物貰ったらダメ?ってことか?」

イアンは頷いた。……なるほど、言葉自体は忘れていないようだが、久しく話していないから構築に時間が掛かっているらしい。まるで、片言で話す異国人と会話しているようだった。
前と同じベンチに招いて、イアンに座るように言う。
イアンはやはり犬みたいに座った。


「今日は、エリアスの話をしたい」
「ごしゅじ、さま、の?」
「ああ。俺はあいつが3つの時に海外に留学して、つい最近戻ってきたばかりだからさ。あいつのこと、あんまりちゃんと知らないんだ。……情けないよな、たった一人の兄なのにさ」
「…………」
「……イアンから見て、エリアスはどんな奴だ?こわくないか?」
「こわく、ない。ごしゅじさま、やさしい、いっぱい、なでてくれる」
「……そっか」
「うん」
「エリアスのこと、好きか?」
「うん、ごしゅじさま、すき」
「……今、イアンは幸せか?」
「……うん、ごしゅじさまのいぬ、しあわせ」


嘘だ、と思った。
本当に心から幸せだと思っているなら、どうしてそんな寂しそうな顔をする?
どうして夜、エリアスに内緒で庭に出てくる?


「…………イアン、夜が好きなのか?」
「うん、すき」
「夜の何が好きだ?星か?月か?」
「ほし、すき。つき、すき。かぜ、すき。とり、すき。むし、すき。みんな、だいすき」
「…………そっか」

俺は財布から1枚の写真を取り出した。……卒業旅行で世界中を旅した時に撮った、東洋の国の満月の写真だった。


「つき」
「そ、月。どう思う?」
「きれい」
「うん、綺麗だろ。これ、日本って国で撮ったんだ。向こうの言葉で、中秋の名月って言うんだけど。1年で1番綺麗な満月なんだって」
「…………にほん」
「知ってるか?」
「うん、しってる。とおい」
「ああ、遠いな」
「いったの?」
「行ったよ。日本だけじゃない、隣の中国にも行ったし、アメリカにも行った。タイにも行ったし、インド、オーストラリア、トルコ、それからえーっと、アフリカにも少し」
「すごい」
「学生の道楽だよ。もう行けないな。これから、この家を継ぐためにやらないといけないことがたくさんある」
「……もう、いけない、みれない?」
「大丈夫。行けなくなる代わりに、たくさん写真を撮ってきたんだ。明日、エリアスとイアンにも見せてあげるよ」
「ほんと?」
「ああ、嘘つかない。……イアンは、綺麗な景色好きか?」
「うん、すき!」



――あ、


「……やっと、俺の前で笑ってくれたな」
「……」
「ん、とってもいい笑顔してた。そうやって笑ってるのがいいよ、イアン」
「…………、……ぁ」
「よし、じゃあそろそろ戻ろうか。あんまり長居してると冷えるしなー……」
「……り……」
「?」


「……あり、がとう……のっくす」




――ああ、やっぱり彼は犬なんかじゃない。人間だ。
彼が初めて俺に向けてくれた笑顔、初めて言ってくれたお礼、初めて呼んでくれた名前。
どれも全部、人間のもの。

……俺は、この瞬間に。
彼を、どうにかして幸せにしたいと思った。










「すごい!ノックス兄さん、これなあに?」
「それはだなーナイアガラの滝って言って、ものすごーく!大きな滝なんだぞ」
「滝?って、水がざーって流れてるところだよね?」
「そうそう。見えるかな?ここにすごく小さく点があるんだけどさ、これが大人なんだよ。大人1人がこんなにちっぽけに見えるくらい、この滝は大きいんだ」


ある日兄さんはたくさんの写真を持って僕の部屋に来てくれた。
世界中を旅行してきた時に、僕に見せるために撮った写真だと、兄さんは言った。

「イアン、すごいすごい!お月さまがこんなに大きいよ!」
「わんっ」
「それはだなー望遠レンズで撮ったんだ。月ってつるつるの丸じゃなくて、表面は結構でこぼこしてるんだ。海もあるんだぞ」
「へええー! ノックス兄さん、ものしり!」

部屋の中にいながらにして、僕は世界中の美しいものを知った。
写真はすごい。僕が見ることのできない遠くの景色を、こんなに近くで見せてくれる。

「すごいなあ、きれいだなあ。イアンもそう思う?」
「……わんっ」
「……ん?イアン?どうしたの?」
「トイレじゃないのか?大丈夫、写真は逃げないから、行っておいで」
「?? トイレじゃないような……ま、いいか。イアン、今日はここまでにしよう。僕もちょっと目が疲れちゃったや」


イアンはこのところ、元気がない日が続いていた。
どうしたのだろう。お医者様に見せても、元気だっていうのに。












「――ここでこうしてイアンと会うのは、何度目かな」
「…………に、にじゅう……さ、よん?」
「数えなくていいよ、俺も覚えてない」

あれから、何度もこの庭で彼と会った。
彼からは少しずつだけど、色々な話を聞けた。
自然豊かな南部地方で生まれた彼は、暇があれば近所の森に遊びにいくようなやんちゃな少年だったこと。
その近所の森が大規模なショッピングセンターの建設――奇しくも、それはうちの系列の店だったらしい――によって大半が失われてしまったこと。
便利にはなったけれど、いつもの遊び場がなくなってしまって悲しかったこと。
便利さと自然が共存できたらいいのにと思うようになったこと、公務員の両親からはあやふやな理想論を追っていても飯は食えないと反対されたこと、それでも諦められなかったこと。
国立の大学に合格したら、そして無事に卒業できたら、自分の夢を認めてくれるよう両親を説得したこと。
その、第1志望の大学に念願かなって合格して。
新居を探しに街に出てきて。
いつの間にか道に迷って。
裏路地を1人歩いて。

気づいたら。


「……もうすぐ、秋だ」
「…………うん」
「といっても、この辺りじゃ、秋なんて一瞬ですぐに冬になるけどな」
「あき、こうよう、きれい」
「……ああ、そうだな」
「…………」
「…………元気ないな。俺と話すの、もう嫌になったか?」
「……! っ、……!!」

彼は、首をぶんぶんと横に振ってくれた。
それが嬉しくて。いや、寒かっただけかもしれない。俺は少し、彼との距離を詰めた。



「……わか、ないんだ」
「何が?」
「……ごしゅじんさま、やさしい。……ノックスも、やさしい。みんな、やさしい、しあわせ」
「……うん」
「……でも、こうやってすわってると、おつきさま、とおい。きのうえのむしも、とおい。うみもやまも、みえない」
「…………うん」
「いま、しあわせ。……なのに、かなしい、わからない」
「………………なあ、イアン。はっきり聞くぞ。……お前、もう、本当はとっくに人間の心を取り戻してるんだろ?」
「っ……!!」
「大丈夫だよ、叱ったりしない。エリアスにも黙っておく。……俺がそういう人間だってのは、もうわかってるだろ?」
「……うん」
「よし、そーとなりゃ。動くかねえ」
「うご、く?」

ベンチから立ち上がり、イアンと向かいあうように立つ。
首を傾げるイアンに、俺はウィンクしてみせた。

「親父にこんな馬鹿げたペットごっこはもうやめろって言ってくるよ。いつまでも犬としか接していなかったら、エリアスのためにもならないしな。俺が家督を放棄するって言ったら、流石の親父も動かざるを得ないだろ」
「え、だめ」
「なんでだ?」
「だって、そんなことしたら、ノックス」
「あー……まぁ、家にはいられないだろうなあ。ま、いいさ。学歴だけは立派だから就職先探すよ。普通にさ」
「でも、ノックス、このいえ、あととり、そのために、いっぱいべんきょう」
「そんなん、たいしたことないさ。大事な友達と、可愛い弟のためなら」
「……とも、だち?」
「ああ。イアンは俺の友達。あ、勿論人間のな。……友達じゃイヤなら、親友でもいいぞ?」
「……ううん、うれし、うれしい」
「そっか、喜んでもらえて俺も嬉しいよ」





――だが、そんなに上手くはいかなかった。
当たり前か。何せ父は、子供に犬を与えてやることが心からの愛情だと信じて疑わない人なのだから。

出て行くなら出て行けばいいと怒鳴られた。
だが、イアンを連れ出すことは許さない。エリアスのたった「1匹」の友達を引き剥がそうとするなんて、お前はなんて冷酷な男なんだと勘当される勢いで怒鳴られた。
大声に気づいた母が仲裁してくれなければ、こちらも売り言葉に買い言葉でシーカヴィルタの名を捨てるところだっただろう。

「……ったく、熱くなっちゃだめだな」

名を捨てるなら、それと同時にイアンも救い出さなければ意味が無い。
俺がいなくなったら、今度こそ本当にイアンを助けられる人間はいなくなってしまう。
俺がいないと、イアンは……。

「…………ん、……なんか俺、最近イアンのことばっかり考えてる?」

いつの間にか、エリアスよりもイアンを優先している自分がいた。
それが決して、同情という感情だけではないことに、俺はこのときやっと気がついた。
ああ、俺は。……自分がイアンと一緒にいたいだけなのだ。



正義とか、弟のためとかじゃなかった。もっと、とても、単純なことだった。







「……ってわけだ、すまん。交渉決裂した」
「……ううん、わかってた。ずっと、このままだって」
「ま、まだ諦めるのは早いからな? 今度はエリアスを説得してみようと思う。エリアスが犬を手放す気になってくれれば……」
「それは、ないよ。ごしゅじんさま、いぬだいすき。ごしゅじんさま、いぬ、てばなさない」
「…………だ、よなぁ」
「ありがと、ノックス、がんばってくれた。それだけで、もうじゅうぶん」
「……」


そんな悲しそうに笑わないでくれ。
一番つらいのは、お前だろう?つらいって、外に出たいって、期待させやがってって、泣いていいんだ。
だけど泣き顔を見たくなくて、俺は彼の身体を抱き寄せた。

「ノックス、ないてるの」
「……ばかやろ、俺は泣いてねぇよ。イアン、お前こそ泣いてんだろ、見てないけど」
「…………ノックス、おれ、ないてないよ」
「うそつけ、肩震えてんぞ」
「それは、ここ、さむいから。……あと、ノックスが、ないてるから」

本当かよ、と身体を離してみた。イアンは大うそつきだった。

「……ノックス、でも、おれちょっとほっとしてる」
「なんでだ?俺が勘当されなくて済んだことか?」
「ちがう、おれ、そとでたい、にんげんなりたいっておもってた。でも、そしたら、ここでノックスとつきみれなくなる。それは、さみしい。ノックスといっしょ、いられるなら、おれ、いぬでもいい」
「…………ば……っか!」


強く肩を掴んで、彼のこげ茶の瞳を見据えた。彼がびっくりしたように、泣くのをやめた。

「いいか、俺はイアンを絶対にこの家から連れだす!海でも山でもお前が望むところなら何処でも連れてってやる!独りぼっちになんかさせない、絶対に!……だって、……だって俺もイアンと一緒にいたいんだ、だから……っ……!」
「ノックス、なかないで」
「うるせー、イアンだって泣いてただろ」
「ノックス」


溢れ出る涙に負けて俯いていた顔を上げる。
そこには太陽のように笑う、イアンがいた。

「――わらって、ノックス」


「……っ」
「おれ、しあわせだよ。ノックス、おれ、いっしょいたいっていってくれた。いまなら、しんでもいい」
「…………ばか、死ぬなんて言うなよ。人生まだまだこれからだろ」
「そうだ、ね。ごめん。しぬまえに、ノックスときれいなけしき、いっぱいみなきゃ」
「ああ、一緒に行こう。最初は海と山、どっちがいい?ああ、川でもいいぞ?」
「……ふふ、どっちでもいい。つきとほしが、ここよりも、もっときれいにみえるばしょなら」
「じゃあ、山だな。国内だけどさ、展望台がある山があるんだ。ガキの頃に一度行ったきりだけど、すっげー綺麗でさあ……」
「……うん、いきたい。いっしょ、いこう」












もう、迷いはなかった。
翌朝になれば、父はすぐにでもエリアスに今晩の俺とのやりとりを父の都合のいいように伝えるだろう。
そうしたら、イアンはもう夜の散歩も自由にならないかもしれない。俺も、イアンに二度と会えなくなって、この家から追い出されるかもしれない。決行は、今夜しかなかった。


「……服は、俺のでいいよな」
「うん」
「とりあえず24時間開いてるファーストフードにでも隠れて、始発の電車を待とう。そこまで逃げ切れば、きっと大丈夫だ」
「うん」
「……立って、歩けるか?」
「……がんばる」
「つらくなったら、すぐに言えよ」


エリアスは今夜も何も知らずに眠っていた。
その寝顔を見ると、一瞬だけ決心が揺らぎそうになる。だが、……駄目だ。
結果的に、これはエリアスのためでもあるんだと俺は俺に何度も言い聞かせた。


「……じゃあな、エリアス。幸せに暮らせよ」
「……わんっ」

彼の茶色の首輪を外して、エリアスの枕元に置いた。
その後はもう、俺もイアンも振り返らなかった。








「――よし、此処までくればとりあえずは安心かな、えーと、ファーストフード、……どっか無いか?」
「……ノックス」
「ん?」
「……なんか、いやなけはい、する」
「……うそだろ?いくらなんでも、早すぎ……っ!!」



俺は、「犬」と関わらない生活を送ってきたがために「犬」に関する背景事情を何も知らなかった。
単に、これは父の最低な娯楽だと思っていた。父さえ振り切ればどうにかなると思っていた。
だけどそうじゃなかった。
犬の売買に関しては、俺が想像していたよりもずっと大きな組織が裏で動いていたらしい。事前に父が何かしらの手配をしていたのか、今となっては知る術はないが、とにかく、俺たちを追ってきているのは複数人で、素人ではないことだけはわかった。


「タクシー!」

電車を待っている余裕などなさそうだった。
金は掛かるが仕方がない、とにかくこの街を離れるべきだと判断し、俺とイアンはタクシーに乗った。
……タクシーなら尾行も簡単だと気づいたのは、もっとずっと後のこと。
目的地の、山の麓についてからだった。



「……流石に、こんな早朝じゃロープウェイも動いてない、よな……」
「ねえ、ノックス。あれ」
「……っ、しつこいな!!まだ追ってくるのかよ! イアン、こっちだ!」

ロープウェイも、麓の喫茶店も、夜が明け切らないこんな時間には営業しておらず。
それでも隠れるために、俺たちは山に入った。
いい加減に諦めてくれと願ったが、それは叶わず。逃げても逃げても、奴らは追いかけてきた。


「いたっ!」
「イアン!!」
「……っ、へーき、ノックス、はやく、にげて」
「馬鹿、お前置いていってどうするんだよ!!」

右も左もわからない、鬱蒼と生い茂る木々の間を2人手を繋いで逃げた。
長年四足歩行しかしていなかったイアンの足は、急な運動に耐え切れず、何度も何度も転んだ。
最低限、と思って持ってきた着替えの鞄は途中で捨てた。
代わりに、俺より背が高い割に俺よりずっと軽いイアンを背負って、走って、走って、走って。


「ノックス、……」
「……ほんっと、ついてない、な」


めちゃくちゃに走った先。不意に森が開けたと思えば、そこは崖になっていた。
引き返そう、と振り返ればそこには黒服の男が3人、銃を構えて立っていた。
背を叩くイアンを、そっと下ろして。イアンを庇うように立った。

「……やめろよ、何の冗談だ」
「貴方こそ、ご自分が何をなさっているのか解っておられるのですか?」
「ああ、わかってるさ。好きなヤツと一緒に愛の逃避行だ。……見逃してくれよ」
「できません。我々は、貴方と、その犬を連れ戻すようにと命じられています」
「ちっ、出ていけとか言ってた割に随分とご執心じゃねぇかうちのクソ親父はよ」


「……ノックス」
「…………なんだ?」

「さあ、そちらは危険です。抵抗しなければ撃ちません。おとなしく両手を上げて、こちらに来てください」

「もう、いいよ。ひさしぶりにまち、みれた。タクシーのりながら、いろんなけしき、みれた。もりも、そらも、きれいだった」
「……おい、イアン?」
「ありがとう、おれは、もうじゅうぶん。とっても、たのしかった。……ノックスは、また、いえにもどって。エリアスとなかよく」
「やめろ!」

1歩、2歩。俺の背から崖へと離れていくイアンの腕を、俺は掴んだ。
行かせない。逝かせない。お前だけを、こんなところで。


「……言っただろ。絶対に、独りぼっちになんかさせないって」
「ノックス」
「いいよ、一緒だ。展望台まで連れていく約束は守れなかったけど。ここで、2人で、太陽も、月も、星も空も全部、一緒に見よう。……ずっと、俺とイアン、2人で」



「……うん、いいよ。ノックスといっしょ、しあわせ」




「――……!!」






誰かが叫んだ声が聞こえた気がした。
いいや、そんなのはどうだっていい。
今、俺の耳に聞こえるのは、強い強い風の音と俺の名を呼ぶ彼の声。
俺の目に見えるのは、眩く輝きながら昇る太陽と彼の笑顔。
俺の腕の中で感じるのは、俺と彼、どちらのものかわからない鼓動。






相対する「それ」は。
どちらともなく、消えて、なくなる。













その日の朝は、少し寝坊した。
なんだか騒がしいなと思いながらぼんやりと目を開けると、最初に目に飛び込んできたのは、イアンの茶色い首輪だった。
なんで、ここにあるんだろう。まだ寝ぼけてるのかな……?

「……うう、イアン……?」

呼んでも返事がない。何の気配もしない部屋は、少しだけ怖かった。

「イアン、トイレ行ったの……? だめだよ、首輪外しちゃ、……イアンー?」

1人で歩く廊下は、いつも以上に長く感じられた。
トイレかなと思いつつ、トイレじゃないような気がしていて、足は自然と騒がしい方向へと向かっていく。


「――なんて、奴らだ……!!よりによって、犬と心中なんてっ!!」
「あああ、そんな、ノックス、ノックス……っ!!」
「くそ、くそくそくそっ!!おい、遺体の回収はっ、状況はっ!!」
「それが……かなり高さのある崖だったらしく、地上からも空中からも回収は困難な状況で……。どの道回収できたとしても、恐らくもう全身はばらばらで人の形を成していないかと……」
「うあああああっ、そんな、嘘よ、嘘よノックスううううっ!!」
「こっ、言葉を選べ、馬鹿者がっ!!」
「も、申し訳ありませんっ」

父と母の部屋だった。珍しく、扉は開いていた。
僕はそこで、イアンの首輪を片手に持ったまま父と母と、使用人の話を聞いていた。
「しんじゅう」って言葉の意味が、僕にはわからなかった。
でも、怒る父と泣き叫ぶ母の姿をずっとずっと見ていて、僕は唐突に気づいてしまった。


もう、兄さんもイアンも、ここには帰ってこないんだって。







涙は出なかった。
僕の世界には楽しいことしかなくて、僕の周りには優しい人しかいなくて。
それだけで全てができあがっていたから、僕は悲しいときの泣き方がよくわからなかった。

ずうっと立ち尽くしていたのを別の使用人に見つかって、部屋に連れ戻されて、寝て。起きて。寝て。起きて。寝て。起きて。
眠れなくなった何度目かの晩で、僕は本当の孤独を理解した。
あんなに楽しかった自分の部屋が、今はもう、自分を追い詰めるかのように冷たくて苦しくて。
怖くて、痛くて、どうしようもなかった。





母は、その後少ししてから亡くなり、新しい母が家に来た。
僕は、母とは交換がきくものなのだということを知った。
だから僕は父に頼んだ。新しい犬がほしいと。父は承諾し、僕に新しい犬をくれた。

だけど、新しい母とも、新しい犬とも、僕はうまく馴染めなかった。


やがて新しい母は、新しい犬と一緒に僕を別の建物へと追いやった。
弟が生まれると、お前と犬が家の中にいると弟の教育に悪いからと、そんなことを新しい母は言っていた。
僕は広い部屋の中で犬と2人っきりなのには慣れていたけれど、犬は余程ストレスが溜まってしまったのだろう。胃に穴が開いて、死んでしまった。
僕はまたすぐに、新しい犬を買ってもらった。

僕を閉じ込めた部屋にはやがて外から鍵が掛けられ、その時鍵の取り付け作業にあたった使用人の話で僕はようやく、僕の知らなかった全てを知ることができた。



「新しい母さんはなんてひどい人なんだ」
「父さんはどうして僕を助けてくれないの」
「イアンはどうして僕を裏切ったの」

「兄さんさえいなければ」


感情を何にぶつけていいのかわからなかった。
ただ、僕を裏切った兄さんとイアンを憎むことしかできなかった。
だけど、強い怒りは長くは続かない。代わりに僕は無気力になった。
衝動的に死にたいと思っては全て阻止され、刃物の類は全て没収された。
僕は死ぬことを諦めた。死ねないなら、生きるしかない。
使用人から聞いた話が本当ならば、僕はいつか殺される。
その時までただ生きていればいい。独りぼっちは寂しいから、犬と一緒に。




「ねえ、本当は僕も」



誰にも言わなかった、言えなかった、自分ですら気づいていなかった願い事。
それを叶えてくれる犬が現れるのは、もう少しだけ、後の話。












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