「…………水だけで粘るのは本気でやめてもらえませんかね」
「仕方ないだろう。待ち人が来ないんだから。おかしいな……」
ベネットがアルバイトをしている喫茶店。いつもの席……とは少し違う、オープンスペースのテラス席。
イワノフに要求された3杯目の水のお代わりを注ぎつつ、ベネットはいらいらと毒を吐いた。
毒と言っても今回ばかりはベネットが正しい。いくら混んでいない時間帯とはいえ、注文ひとつもせずに1時間も居られたら退店願うのが普通だ。
「待ち人?へえ、あんたにも待ち合わせするような相手がいるんだ。誰?カノジョ?」
「カノジョじゃあねえが、俺の大事な女だな」
「…………へえ」
「なんだあ?嫉妬か」
「はい水。これ飲んだら出てってくださいね」
ダン、と叩きつけるように置かれたプラスチックのコップにイワノフは肩を竦めて苦笑を浮かべる。待ち合わせ場所をこの喫茶店にしたのは待ち合わせ相手の彼女をベネットにも会わせたかったという思いからだったが、どうやら機嫌を損ねてしまったらしい。
彼女がここまで遅れてくるのはきっと何か理由があるのだろう。一度帰って仕切りなおすべきだろうかと思いながら水を口にしたところでその彼女は現れた。
「ごっ、ごめんね!バスに乗り遅れて、け、ケータイも繋がらなく、って……!」
「おう、いやいや大丈夫だ。ぜんぜん待ってないぞ。ほら座れ座れ」
ぜんぜん待ってない?随分な二枚舌だなと心の中で毒づきながらベネットがちらりと振り返る。現れたのは十代後半くらいの若い女の子だった。見覚えのある面影に、目を見開く。
「…………君は」
「あっ、……もしかしてベネットお兄ちゃん!? わたしです、ソフィアです!」
「やっぱり!ソフィアかー……!大きくなったね。今ええと……」
「18です!春からベネットお兄ちゃんと同じ大学に通うことになったんですよ。学部は別ですけど」
「そうだったんだ。……最後に会ったのが小学生の時だから……懐かしいな」
ソフィア――イワノフの一人娘がベネットににこりと微笑む。彼女の両親、つまりイワノフの妻とイワノフが離婚して以来、ベネットは彼女に会っていなかった。懐かしさに口を開こうとするが、店内からいつまで油を売っているんだと言いたげなチーフの視線がガラス越しに飛んできたので口を噤む。
「……とりあえず、ご注文を」
「えっと、コーヒーお願いします!ねえベネットお兄ちゃん、わたしコーヒー飲めるようになったんですよ」
「そっか、すごいね。……で、そちらのお客様は」
「……俺もコーヒーで」
「はい。コーヒー2つですね。少々お待ちください」
注文をとったベネットが店内に引っ込むと、ソフィアはすかさずイワノフに耳打ちした。
「ねえパパ、……ベネットお兄ちゃん、すごく格好良くなったよね」
「んん?そうかぁ?毎日見てるけど背以外あんま変わった気が……」
「変わったよ!昔からかっこよかったけど、あの黒と白のウェイター姿すごく似合ってて、お兄ちゃん、から、お兄さん、になった感じ!」
「……んんんー……?」
「彼女とか、いるのかな?」
「彼女ぉ?いるわけねえだろ、あんな天邪鬼なガキに」
「女の子が出入りしてるところとか、見たことない?」
「ないな」
「そっかあ……。……じゃあ、わたしにもチャンスあるってことだよね?」
「…………お、おい。お前まさか……!」
「お待たせしました」
別のウェイターがコーヒーを2つ運んでくる。ベネットに聞かれていなくてよかった……とお互いに胸を撫で下ろしつつ、コーヒーに口をつけた。
「もう、パパってば動揺しすぎ」
「す、すまん」
「でも、わたしももう大学生だよ?子離れしなよ、パパ」
「う、うむ……」
「あーあ。やっぱりママの言うとおりだったな。部屋探ししておいて正解ー」
「……うん?またこれから家で一緒に暮らすんだろう?」
「コホン。…………ソフィア、入学祝いはまた改めてするけど、今はこれで。僕の奢りだよ」
「! いちご……!好きなの覚えててくれたんですね?ありがとうベネットお兄ちゃん!」
「どういたしまして。それではごゆっくり」
ベネットが営業スマイルを浮かべて再び店内へと戻っていく。だが、カウンターの中に戻った時には彼の表情から笑みは消えていた。
「…………一緒に暮らす……」
それは、ソフィアだけが?それとも、奥さんも呼び寄せてよりを戻すのだろうか?
イワノフが離婚したときベネットはまだ幼く、隣家の離婚の原因がよくわからなかった。今聞けば答えてくれるかもしれないが、改まって聞く話題でもないと今までずっと知らない振りをしてきたのだった。
「……別に、どうでもいいけど」
ソフィアのことは嫌いではない。それどころか昔は妹みたいに可愛がっていた相手だ。
彼女の母も厳しい人だという印象ではあったが、むやみやたらに厳しいわけではなく筋の通らない曲がったことが嫌いだっただけで、そういう意味では適当でちゃらんぽらんで子供だからと自分をあしらうイワノフよりも余程信用できる大人だった。
だから彼女たちがまた隣家に戻ってくるのは、イワノフにとっても、ベネットにとってもきっと喜ばしいことなのだろう。
なのにどうして、こんなに胸が落ち着かないのだろうか。もやもやとした気持ちを抱えながらベネットは仕事の続きをこなしていた。
翌日。ソフィアはイワノフの家に居た。ああ、やはり一緒に暮らすのだとベネットは悟る。
「入学シーズン……か」
自室の窓から桜の花びらが風に舞う様子を眺めながらベネットは独りごちた。
イワノフと初めて行為に及んだのは去年の今頃、合格発表の日だった。無事に地元の志望校に合格し、イワノフもまるで我が子のことのように喜んでくれた。
しかしそんな喜ばしい日に両親は仕事で不在。同じ学校を受験していた親友は不合格だったため声も掛けづらく、一人でだらだらとしていたところイワノフが家に招き、ささやかなお祝いをしてくれたのだった。
最初は普通のお祝いだった。ピザを頼んで、バラエティ番組を見ながらこれからの生活や夢なんかを話した気がする。酒を飲んだのはどちらの提案だったか。どうせ一口目で吐き出して笑われるのだろうと思われたそれは、意外にもベネットの身体にしっくりきた。その時にはイワノフもそれなりの量を飲んでいた。二口目、と飲んだものはいつしか飲み比べになっていき、そして。
気づいた時には、カーペットの上で服を肌蹴られていた。
『……ふ、おじさ……?』
意識はだいぶはっきりしていたが、身体が全く追いつかなかった。呂律もうまく回らない状態で、状況がおかしいとわかっても、覆いかぶさるイワノフの身体を押しのけることもできなかった。
ここに至るまでにどのような会話をしたのかベネットもイワノフも結局覚えていなかったが、イワノフはいくら酔っていようと手当たり次第に誰かを押し倒す相手ではない――と、それくらいの信用はしていた――、恐らくお互い調子に乗ってふざけた会話をしたのだろう。
その結果、合意の上の行為に繋がるような流れになったのだ。……きっと。
元々の体格差もさることながら、イワノフは酔っていても腕力はあまり変わらなかった。抵抗の声も届かないままに足を開かれ、犯された。だけど酔っていたからか、その時は別に悪い気はしなかったのだ。寧ろ――……。
「――ベネットお兄ちゃーん!」
呼ぶ声に、はっと我に帰り窓の下を見下ろした。隣家の庭からソフィアが手を振っているのが見える。
「ベネットお兄ちゃん、今から時間ありますかー!?」
「今から?……うん、夕方からバイトだから、それまでは暇だよ」
「ちょっと、買い物付き合ってもらっていいですかー!?パパについてきてもらおうと思ったんですけど、昼間っからお酒飲んで寝ちゃってー!」
「…………いいよ。支度するから、ちょっと待ってて」
昼間から飲酒だなんて、本当にだめなオッサンだなとベネットは心の中で毒づく。手早く身支度を整えて玄関に出ると、既にソフィアが待機していた。昨日はかわいらしいフリルスカートだったが、今日は一変してスポーティーなスニーカーにジーンズという姿だった。
「お待たせ、何処に買い物に行くの?」
「ホームセンターまで!何年か前に新しいのが近くにできたって聞いたんですけど、場所がわからなくて……」
「ああ、あそこかな。いいよ、案内してあげる」
「ありがとうございます!」
二人が買い物に出かけた少し後、イワノフは居間で目を覚ました。空の酒瓶を適当に転がしつつ廊下に出て娘の姿を探す。いない。
買い物をする約束をしていたのにおかしいなと再び居間に戻ると、ソフィアのメモに気がついた。
「……パパへ。パパが起きないのでベネットお兄ちゃんとお買い物に行ってきます。すぐに帰るつもりだけど、帰らなかったら晩御飯は自分でどうにかしてね。……ソフィア」
時計を見る。ソフィアたちはいつ出かけたのだろう。追いつける気もしなければ、追いかける気もしなかった。
「…………ったく。……お前なんかにゃソフィアはやらんぞ」
空のグラスを傾けながら、イワノフは胸に妙な苛立ちが湧くのを感じていた。
「えへへ、ベネットお兄ちゃんありがとうございます」
「掃除道具?」
「そうです。荷物入れる前に部屋の掃除しないといけないので」
「あー……なるほどなあ。散らかってるの?手伝おうか?」
「いえいえ、そこまでひどくはないので大丈夫ですよ!」
洗剤や雑巾といったものが入ったビニール袋をベネットが持ち、その横をソフィアが歩く。荷を持ってもらったことに申し訳なさげな顔をしたソフィアに、ベネットはこれくらい当然だと首を横に振った。実際、それほど重くもない。
「……あの、ベネットお兄ちゃん」
「ん?」
「大学、楽しいですか?」
「うん、それなりには」
「友達、いっぱいいます?」
「少ししかいないよ。僕結構ひねくれてるから」
「そんなことないですよ!ベネットお兄ちゃんは素敵な人です!」
「……ありがと、お世辞でもうれしいよ」
「お世辞じゃないのに……、……っ、ベネットお兄ちゃん!」
「何?」
「い、いい、今、す、好きな人とか、いますか!?」
渡ろうとした信号が丁度赤になってしまう。そのせいで二人はその場に停まらざるを得なくなった。
そしてベネットはここですっ呆けるほど鈍い性格でもなければ、気を許しているソフィア相手に咄嗟に嘘が吐けるほど狡猾な性格でもなかった。つまり、ごまかすことに失敗したのである。
「……きゅ、急に何を」
「教えてください!……かっ、彼女はいるんですか!?」
「彼女はいないよ……。ほら、理工学部だと女の子がそもそもいないし」
「部活で出会った同級生とか、バイト先の先輩とか、図書室で出会った後輩とかいないんですか!」
「…………いないよ。彼女も、好きな女の子も、いない」
信号が青になる。ベネットは気持ち早足で横断歩道を渡り始めた。ソフィアが慌てて小走りでついてくる。もうすぐ家についてしまう。いくら近所とはいえ、連れ出す口実なんてそうそういくつもあるものじゃない。ソフィアは焦っていた。
「べ、ベネットお兄ちゃん」
「……何?」
「わたし、じゃ、だめですか!」
「え……?……っ!?」
横断歩道を渡り終えて振り返る。唇に柔らかい感触。背伸びしたソフィアの甘い香りが鼻腔をくすぐった。
「わ……わたし、ずっと、ベネットお兄ちゃんが好きだったんです」
「…………」
「わたしじゃ、だめですか……?ベネットお兄ちゃんの、彼女にしてください!」
「…………っ、……ごめん……その、考えさせて……」
赤くなった頬を押さえながら、ベネットはソフィアに荷物を返し、もう目の前だった自宅へと駆け戻る。
扉を閉めて呼吸を整えながらそのままずるずると座り込んだ。
「……なん、で」
好きな人いるんですか、と聞かれた時に、キスされたときに浮かんだ顔。浮かんだのはどの先輩でも、同級生の顔でもない。自分を犯した、……それでいて決して自分のものにはならない、あの男だった。
ベネットは唇を噛んだ。好きになっちゃいけない。だって自分は男で、彼も男で、娘もいて、もしかしたら妻とよりを戻すかもしれない相手だ。
自分は彼の何にもなれない。だから、好きになっちゃいけない。
「…………っ……」
ぐっ、と腕に力をこめる。自身を抱きしめるように掴んだ腕は、震えていた。
「ただいま……。……パパ?」
ソフィアは恥ずかしさと申し訳なさが困惑したような表情のまま家に戻っていた。居間を覗けば酒を飲んでぐーすか寝ていた父親は胡坐をかいてこちらに背を向けている。
漂う雰囲気に、ソフィアは居間の中に入るのを躊躇う。それでも帰宅の旨だけは伝えなければと廊下からイワノフに呼びかけた。
「パパ?買い物行ってきたよ、ただいま」
「……ソフィア、お前、ベネットと付き合うのか?」
「……パパ? ……まさか、見て……!」
「そこの交差点はウチの窓から丸見えだろうがよ。……ったく、近頃の若いモンは」
「…………」
「どうなんだ」
背を向けたまま、イワノフはソフィアに問う。
ソフィアは少し俯いたあと、正直にベネットの返事を告げた。
「……考えさせてって、言われたからまだわからない」
「…………」
「でもね、パパ!わたし真剣なの!だから……!」
「出ていけ」
「…………!」
「……上手くいったらいつか認めてやるさ、でも今は俺に心の整理をする時間を寄越せ。……お前だって今は大学の入学手続きやらで色々忙しいだろ。色恋沙汰より先にそっちを片付けろ。今日明日で急にどうこうできると思うな」
「…………はい」
「俺は寝る。飯は要らん」
「あ、パパ……! …………、」
イワノフがその大きな身体を揺らしながら居間を出て二階へと上がっていく。ソフィアはその背を不安げな表情で見つめていた。
novel menu next