「名探偵と呼ばれたこの私にも解けない謎があるというのか。
ああ、解らない。解せない。何故。ああ、どうして。
こんなにも胸が張り裂けそうに痛むのか。
しかしその痛みがたまらなく幸福なのか。
私は俗に言うマゾヒストになってしまったのだろうか?」
[Re:今宵、あなたと血の宴を]
「ベネットさーん、いらっしゃいますかー?」
「……と、ソフィア?ちょっと待ってね」
黒髪の青年は開いていた本を閉じて、窓から顔を出す。
栗色の髪に丸い瞳が可愛らしい若い女がそこにいた。
女はバスケットを掲げて花のように笑いながら言う。
「クッキー焼いたんですけど…その、作り過ぎちゃって。おすそわけに来ました」
「いつもありがとう、ソフィア。ソフィアの作るお菓子は美味しいから、おすそわけでも貰えて本当に嬉しいよ」
「ほ、本当ですか?」
「うん。…でも、たまには作りすぎないようにちゃんと分量量ったほうがいいよ?」
「あ、あはは。そ、そうですよね。どうしてもつい作り過ぎちゃって」
青年は瞳を細めて笑う。
耳打ちするように、少しだけ女に顔を近づけた。
「そういえば――…来月、誕生日だったね」
「は…っ、はい!覚えててくださったんですか!?」
「勿論。僕もずっと楽しみにしてたんだから」
「え、えっ。それってどういう……」
「…内緒。来月になったら教えてあげるよ。……じゃあ、僕はこれで。クッキーご馳走様」
「あっ、ベネットさ……」
窓が閉じられる。女は青年が急ぐ様子を少しだけ不思議に思ったようだったが、空を見上げると納得したように頷いた。
「ああ、そっか……。…今夜は…」
―― 七の月の満月 ――
「満月だ」
俺は空を見上げてそう呟いた。
空には一点の曇りもない満月が煌々と輝いている。
こんな夜は絶好の狩り日和なんだが――不幸にも、獲物に巡りあえずにいた。
最後に食事を摂ったのは前回の満月。もう一月も人の肉を口にしていない。
だから腹が減って仕方がないのに、行けども行けども人影ひとつ見つからないのはどういうことだろう。
ああもう兎でも狸でもいい。肉を食いたい。
そう思えば思うほど生き物の気配を感じなくて。
「――…」
ふわ、と浮くような感覚がした直後に、地面で身体を打つ感覚。
ああ、倒れたのかと思うと同時に――意識が闇に沈んでいった。
俺……死ぬ、のか?
死ぬってどういうことだろう。
よく……解らない。
「解らない。解らないのだ。優秀な弟子はにやにやと笑いながら、『師匠(せんせい)にも解らないことがあるんですね』と言ってきた――」
………なんだ?
「ならばお前には解るのか。私のこの痛み、この苦痛が。
ええ、解りますよ。貴方のその快楽、その本能が」
…人の、声?
「ああ。何故だ。世界中のありとあらゆる謎を解き明かした私に解らないことが存在するだなんて。
これでは名探偵失格だ。私はどんどん自信を失っていった――」
俺はゆっくりと目を開けた。
最初に目に入ったのは、分厚い本を膝の上に開きながら何かを紙に書き留めている…人間の姿。
黒い髪の……二十歳くらいだろうか。整った顔をしているように見えた。
「…あ、起こしちゃった?」
「………だれ、だ」
出した声は掠れていた。それで喉がカラカラに渇いていることに気づく。
「僕?僕はベネット=ケイ。君は?」
「………。…」
「え、もしかして記憶喪失、とか?びっくり。そういうことってあるんだね!」
「…なまえ…。…名前は、テッド、だ」
「あ、なんだ。覚えてるのか…」
ベネットと名乗った男が何故残念そうなのかわからなかった。
…いや、そんなことより。
「ここ、は…どこだ」
「僕の家。森に出てみたら、君が倒れてるんだもの。びっくりしちゃったよ」
「森……ああ」
そういえば最後に歩いていたのは森の中だったっけ…。
「もう昼なんだけどさ。何か食べる?シチューならすぐ出せるよ」
「しちゅー…?」
「うん。シチュー。お肉たっぷり入れてあるよ。ちょっとは元気になるかも。どう?」
「………」
"しちゅー"が何なのかわからなかったが、人間の食べ物なんて…。
……どうせ碌なものじゃないと思って首を横に振った、つもりだった。
だが何故か肯定の返事と受け取られたらしく、妙に嬉しそうな様子でベネットは部屋を出ていくと、暫くして皿に盛られた白いスープ状のものを持ってきた。
「起きれる?」
「………」
その状態で要らないとは言いづらくて、諦めて口にすることにした。
ふーふー、とベネットがスプーンの上のそれを吹いて冷ましてから、俺の口元に運ばれる。
……何の嫌がらせかと思った。人間に、食い物を与えられるなんて。
「口開けて」
「……………ん」
「……どう?」
「…………う、ん…?」
……不味くない。
いや、それどころか…結構…。
「…美味、い」
「よかった。もう一口いけそう?」
…腹が減っていれば何でも美味しく感じるんだろうか。
空腹が満たされてほっとしたのか、強い眠気に襲われた。
「――可愛い」
「ん……?」
「おやすみ、仔熊ちゃん(テッド)」
何を言われたのかもよくわからないまま、俺は久しぶりにゆっくり眠った。
――
八の月の新月 ――
「おはよう」
「お、おはようございます!ベネットさん!」
「もうすぐ誕生日だね。…その日の夜、僕の家に来れる?」
「は、はいっ!? …も、もちろんです!空いてます!!」
「よかった。じゃ、また今夜ね」
ほんの数秒の青年と女の会話に、どこから現れたのか少女たちがきゃあきゃあと騒ぎ始めた。
「ソフィア!今何話してたのー?」
「な、なな、なんでもないよっ!?」
「もしかしてついに……?きゃー! …ソフィア!後で色々聞かせなさいよ!」
「え、や、やだなアイリス。何もないってばっ」
「何もない?じょーだんじゃないわよ!きっとベネットはソフィアが大人になる日をずーっと待ってるのよ。…ソフィアももうすぐ18歳。立派な大人だわ。そう、そしてベネットの腕の中で本物の女になるのよ、っきゃー!」
「アイリスってば!!」
その様子を青年の家の二階から乾肉を噛みながら見下ろしている少年が一人。
「……人間の女ってなんであんなにうるせーんだ」
少年に彼女たちが話している内容はよくわからない。
ただ、黄色い声は姦しい声としてしか聞こえてこない。
その少年の姿に彼女たちが気づくこともないだろう。
少年は青年の言いつけ通り、この半月の間をずっと青年の家の中で過ごしてきたのだから。
「あんなのに絡まれるくらいなら確かに出ないほうがマシだな」
少年の体力はゆっくりとだが回復してきていた。
だが、人の肉を食べていないことには変わらない。
次の満月こそは、人の肉を食らわなければ。
標的は勿論――同じ屋根の下で暮らす青年だった。
「女の肉のほうがうめぇけど、今回は確実に食いてえしな…」
ぶち、と乾肉を噛みちぎる。
それと同時、1階から、ただいま、と青年の声が響いた。
―― 八の月の満月 ――
「――…寝てんのか」
広げたままの本に突っ伏して眠るベネットを、俺は見下ろしていた。
月光に白い頬が照らされる。それでも起きる気配がない。
眠っている今のうちに殺せば抵抗も少なくて済む。
そう思うのに、何故か手が動かなかった。
『なんだこの本。見たことない文字ばっかりだ』
『ああ、それ?異国の本なんだ。主人公の探偵の男がとある謎にぶつかって、悩み続ける話』
『……それは面白いのか』
『面白いかどうかは、読んでみなきゃわからないからね。だから、翻訳してるんだ』
「………」
『……美味しい?』
『………不味くはない』
『うーん…。…テッドって結構グルメだよねえ』
『そうか?』
『うん。最初に作ったシチューくらいだよ、美味しいって言ってくれたの。今日のパスタもそこそこ自信あったんだけどなあ…』
「……っ」
何を思い出しているんだ。
…俺が、人間に情を抱いてる?この俺が?
冗談じゃない。
――冗談じゃない!
『――人狼はどこだ!殺せ!』
『逃げなさい、テッド、あなただけでも…!』
『見つけたぞ、人狼…!女だからって容赦はしないからな!』
人間は、敵だ。
人間は、食糧だ。
それ以上でもそれ以下でもない。はずなのに。どうして。
「…くそっ!……命拾いしたな」
むしゃくしゃする。
どうして俺はあいつを食べられなかったんだ。
どうして。
もう誰でもいい。とにかく腹を満たしてこの家を、この村を離れよう。
そうじゃなければ俺は――。
「きゃっ、ベネット、さ…?」
「…………」
「…ちが、う? …あなたは…誰?」
「……黙れ」
「え」
この家を度々訪れていた女だった。
きっとベネットに気があったのだろうとは思うが、俺にはよくわからない。
今の俺には――この女は食糧、そして、ただの雌にしか見えないから。
食らう。
乱暴に、引き裂いて、抉って、貫いた。
痛いと泣き叫ぶ為の喉は最初に潰した。
玄関先を血で染める。
「――やっぱり処女(おんな)は美味ぇな」
赤く汚して、白く穢して。俺は女の全てを堪能した。
その頃には苛立ちも大分収まってきていた。
だからか。
もしかしたら、油断していたのかもしれない。
「――美味しい?」
階段に座ってじっと俺を見ているベネットに、声を掛けられるまで気付かなかった。
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