最初に感じた違和感はとても些細なものだった。
「……あれ。パンの味変わった?」
「え?」
毎日昼食に食べている、オットーの作るコッペパン。その味がいつもより少し、苦い気がした。
「特に作り方とかは変えてないはずだけど……おかしいな。取り替えようか?」
「ううん。食べられないほど変ってわけじゃないから…」
そう。別に不味くなったわけじゃない。
ただ、変わった。
その時はたまたまそうなんだろうなと思ったけれど、次の日も、その次の日も、オットーの作るパンは苦いままだった。
それでも特に気にしてはいなかった。……そう。今日までは。
[ソジーの夢]
ある日の朝。ゲルトが獣…いや、人狼に喰い殺された状態で見つかった。
昼には村人全員がレジーナの宿に集められて、村長の指揮の下対策会議が行われた。
…僕は、複雑な話は苦手だから主にリーザとペーターの子守りばかりしていたけれど、長い話を掻い摘んでまとめると「今夜から人狼と思しき怪しいやつを村から追放しよう」ということらしかった。
「この季節に村の外に放り出されたらひとたまりもないわね」
「でも文献では、首を吊って毎日殺していったんでしょう…?それよりは、まだ…」
「…そうね。殺してしまうよりは…ね…」
エルナとパメラの話し声が聞こえる。偽善だなと思った。
極寒の村と呼ばれているここは、冬になると深い深い雪で覆われる。日の出ている昼間ですら皆極力外出は控えるし、夜は言わずもがな。
隣村までは歩いて半日はかかる。その間は雪に埋れた道なき道と深い森を通らないといけない。
そんな条件下でたった一人で、村を追い出されたら?
…それならいっそ首を吊られて、村の中に墓を作ってもらうほうが幾分かましな気がした。村から追放するというのは単に、自分の手を汚したくないというエゴに過ぎない。
「それで…誰を追い出すんだ?」
そのディーターの問いに、場が完全に沈黙した。
追い出すと決めたものの、誰がということはまだ決まっていない。皆が視線をそらしたり、見回したりする。人狼を探しているというよりは、自分以外の生贄を探しているように見えた。
「………ベタな推理小説の真似をすると、ここはまず昨日のゲルトの行動と皆のアリバイを確認するべきだよね。昨日最後にゲルトに会ったのは誰?」
「…最後かはわからないけど、昨日、夕方頃に家に帰る途中のゲルトと会ったわ。会釈した程度だけど」
「ふむ。パメラが会った。それ以降は? ………いないみたいだね」
「ゲルトは家で襲われてた。家に帰ってから夜の間に襲われたと考えるのが妥当だろうな」
「じゃあ夜の間のアリバイか。……正直、証明できる人のほうが少ないと思うんだけど、できる人がいるなら、名乗り出て」
オットーの発言を皮切りに、犯人探しが始まった。恐らく最後の目撃者はパメラ。その次に会ったのは人狼のはずなので当然名乗り出はないだろう。
夜の間のアリバイは誰も証明できなかった。…それもそうだろう。雪に閉ざされたこの村の夜が、何時間あると思う?
「足音や足跡の類も雪に埋もれて期待できないでしょうね…」
「逆にさ、第一発見者。ジムゾンだったよね?どうしてあんな朝早くにゲルトの家に?」
「ええと、…その、聖職者として不真面目な話になってしまうのですが。実は私とゲルトさんは酒飲み友達でして。……朝の勤めのついでに、丁度ゲルトさんの家の前を通りかかったのでいい酒が入ったから今夜にでも飲もうと声を掛けようとしたら、玄関の戸が開いていて……」
「え?神父さんお酒飲めたの?初耳よ」
「隠していましたからね。…ディーターさんも、ご存知の筈です」
「………ああ、確かにあいつはかなりの飲兵衛だぜ。見た目からは想像できないけどな」
…ちり、と違和感が意識を焼く。ディーターの返答に妙な間があった。……勿論僕も、神父さんが酒を飲めるという話は初耳だ。…いや、寧ろ酒は苦手なほうだと公言していなかったっけ。
僕が知っている神父さんと目の前のジムゾンの間に、奇妙なギャップを感じる。
「…あのね。ちょっと前にご本で読んだんだけどね。人狼が出た村には、うらないしさんがいることが多いみたいなの。……この中には、いないの?」
「リーザ、…字、読めたんだっけ」
「うん。レジーナおばちゃんに習ったよ」
……あれ?何かおかしい。
リーザは字が読めないはずだ。……いや、それは3ヶ月前の僕の記憶だ。3ヶ月あれば字くらい読めるようになるか…?でも、人狼が出た村の議事録なんて、仮にリーザが字を読めるようになっていたとしても、理解するのは難しいだろう。
僕は周りを見回す。リーザが人狼の議事録を理解していることを疑問に思っている人はいないようだ。…当のレジーナも何も言わない。
代わりに占い師探しが始まった。そして渋々といった感じでエルナと、村のためならとフリーデルが名乗り出た。更にリーザは、本物の占い師は一人だけのはず、と言い、どちらかが人狼ではないかと言い出した。
そして、人狼探しではなく、本物の占い師探しが始まった。
…あとは、もう、…思い出したくもない。
結局、どちらが偽者であろうと結論を出すのはまだ早いということで2人の判断は保留になり。…誰を追放するかは投票で決められることになった。
票は当然割れて……たまたま一番多かったのが、クララだった。
クララは泣きながら一度家に帰り、皆の監視の下で急ごしらえの荷造りをして村を去っていった。
「今夜は雪も弱いし、道に迷わなければ朝には隣村についているはずだわ。…クララには申し訳ないけれど、クララが無実の人ならば、これで暫くは人狼に襲われることもないはず」
そう口にしたのは誰だっただろう。滅茶苦茶だと思った。
…クララが人狼だったら?或いは、明日以降追い出す人間が人狼だったら?…結局、隣村で同じ惨事が起きるだけじゃないか。
………それを誰も言わないのは、僕も含めて、皆わかっているからだ。
”クララが、これから追い出す人間が無事に隣村に辿り着けることはありえない”……と。
そして翌日、エルナが無残な遺体で見つかった。
この日の議論は記録するにも値しない。満場一致でエルナが本当の占い師、フリーデルが偽者。フリーデルを追放することが昼にはもう確定事項のようになっていた。
フリーデルはなんとか説得を試みようとしていたが、ではエルナは何者だったのかという質問に答えを窮していた。…フリーデルが本物であれ偽者であれ、死んだ人間に対して「人狼に加担する頭の狂った裏切り者」というレッテルを貼ることができなかったのだろう。フリーデルはそういう優しい人だった。
「……そうだったっけ?」
トイレの中で僕はうわ言のように呟いた。…そうだったっけ?僕の知るフリーデルはもう少しさばさばした性格だった気がする。非常時だから、それともエルナが死者だから、態度が変わっているのだろうか。少し違和感を覚え、僕はトイレを出てからはフリーデルの追放に特に反対しなくなった。
そして夜には誰の反対もなくフリーデルが追放された。神父さんがフリーデルに何も声を掛けなかったのが、随分と冷酷だと思った。
そしてその次の日も、その次の日も、人が死に、追放されていった。
パメラが、ヤコブが、ペーターが、村長が、ディーターが……。
「…おはよう」
村長が死んでから、会議はオットーが仕切っていた。オットーの挨拶に、皆元気のない挨拶を返す。
「誰を追放する?」
村長が死んで数日はオットーもアリバイやら物証やら探して頑張っていた。だけど疲れてしまったのだろう。とうとう質問はこんなにシンプルなものになってしまった。……そう。人狼相手に物証も何も役に立たないのだ。
結局はもう、誰が誰を指さすか。それだけ。
「…わ、わたしは……。…ヨアヒムさんが怪しいと思います」
僕もこの数日の間に身に覚えのないことで疑われるのにも慣れていたが、流石にこの時ばかりは耳を疑った。僕を怪しいと言ってきたのはカタリナ。…僕の、恋人だったからだ。
「……本気かい?カタリナ。僕が人狼だと?」
「…だ、だって…もう……他に、怪しい人なんて…」
「いるじゃないか!オットー、リーザ、それからシモン!まだ村には5人も人が残っているのに、どうして」
「オットーさんは!…毎日人狼を探そうと必死に頑張っているわ。そんな人が人狼だなんて思えない。リーザちゃんは子供よ、あんな恐ろしいことができるはずない。シモンさんは怪我人だわ。…そしてもちろん、わたしも違う。……だったら!もう、ヨアヒムさんしかいないじゃない!」
「そんな……カタリナ…」
……違う。
…違う、違う違う!
「…ヨアヒム?」
「カタリナ、…君は本当にカタリナなのか?」
「……なに、を、…言って?」
「僕の知ってる…僕の恋人のカタリナはそんなことは言わない!……僕のことを本当に愛してくれていたカタリナなら、それこそ、僕が万が一人狼だったとしても僕と一緒に生きようとしてくれるはずだ。そんな、消去法で疑いを向けてきたりはしない!」
「わたしはヨアヒムさんのことを愛しているわ!…でも、でも……わたしが愛しているのは人間のヨアヒムさんなの、人狼のヨアヒムさんじゃないの!」
「何があっても一緒にいようねって約束してくれたカタリナは嘘だったって言うのか?……違うよね、僕はカタリナを信じてる。カタリナを愛してる!…だから、今の君はカタリナじゃない!カタリナのふりをした人狼だ!!」
「2人とも落ち着け!!」
僕が叫んだのと、オットーが僕とカタリナの間に割って入ってきたのはほぼ同時だった。
それで勢いを削がれ、椅子に座り直そうとして、立ち上がった時の勢いで椅子を倒してしまっていたことに気づいた。それを直すために屈む。
その間に、オットーはカタリナを落ち着けるためにカタリナの傍に寄っていた。
…なんで、カタリナ。
オットーにそんな目を向けるんだ?…まるで、オットーに恋する乙女のようじゃないか。
僕が悪者で、オットーが慰め役で、…ああ、丁度いい。三文小説にありがちな話じゃないか。……笑えない。
「…リーザ、それからシモンはどう思う?」
「…オットーお兄ちゃんとシモンお兄ちゃんが違うっていうのは、リズも思うの。…でも、カタリナお姉ちゃんとヨアヒムお兄ちゃんのどっちかっていうのは、……わからないの…」
「…少なくとも、カタリナとヨアヒム2人ともが人狼ってことはなさそうだし、リーザとオットーが違うだろうって意見には俺も同意だ。…だったら、2人を順に追放していけば、…済む話なんじゃないのか」
「……………わかった」
オットーは一度溜息を吐いて、僕とカタリナに言った。
「今日は2人のどちらかを追放する。3時間後に2人にそれぞれ弁明の時間をあげるから、潔白ならそこで俺たちを説得してほしい。……3時間は、どう使ってくれても構わない。それじゃあ、一時解散」
3時間。
日が沈んで夜が始まるぎりぎりの時間だ。
どちらが追放されるにしても、カタリナと2人きりで会えるのはこれが最後なのだろう。そう思うと、僕はその3時間を弁明を練るために使おうと思えなかった。カタリナと話をしたい。…たとえ、偽者のカタリナであったとしても。
そう思って僕はカタリナの家に行った。
だけど僕はカタリナに歓迎されなかった。
「…カタリナ、何してるの?」
「弁明を考えてるの。…ヨアヒムさんは余裕ね。自信があるの?それとも、諦めちゃったの?」
「……カタリナ、……この3時間を何のためにオットーが用意してくれたのかわかってる?」
「もちろんよ。だからこうして今!何かわたしの潔白を証明できるものがないか、考えてるのよ…!」
カタリナが僕を見る目は、もう、恋人を見る目じゃなかった。
………僕は問う。
「君は、本当にカタリナなの?それを証明できる?」
「同じことを聞くわ。あなたは、本当にヨアヒムさんなの?それを証明できる?」
「…質問を変えよう。…君は、僕がヨアヒムでないことを証明できるのかい?僕はできる。本物のカタリナなら、僕を疑ったりしない。僕を糾弾したりもしない」
「――――――」
僕は、カタリナの答えを聞いてカタリナの家を飛び出した。
そして家に帰って、泣いた。
柱時計が夜を知らせるまで、ずっと。
レジーナの宿に戻ると、カタリナ以外の3人は既に揃っていた。だから先に僕が弁明をした。…だけど、僕の弁明が終わっても、カタリナは宿には来なかった。
心配して全員で様子を見に行くと、カタリナの家には誰もいなかった。代わりに殴り書きのメモが残されていた。
「…何て書いてあるんだ?」
「………やっぱりわたしには、ヨアヒムさんを疑うなんてできませんでした。わたしは自らの潔白の証明のために、自分の意志で村を出ていきます。ヨアヒムさん、…あなたが本当にヨアヒムさんなら、わたしを追って、…雪の中からわたしを見つけだして、……もう…いちど…だきしめ……」
メモを読み上げた僕は、それを握りしめて泣いた。さっきとは違う涙だった。
リーザももらい泣きをしていて、シモンは複雑そうな表情で視線をそらしていた。オットーは、僕の肩に、慰めるようにそっと手を置いてくれた。
だから、その日の追放はなし。
そしてオットーとリーザとシモンが人狼でないなら、これで終わる…はずだった。
だけど、心のどこかで僕は終わらないとわかっていたのだろう。
カタリナはやはりカタリナで、嘘をついていない。……カタリナの様子で、それは嫌というほどに思い知った。
そして、…シモンの死と共に、今日、最後の朝が来た。
「……………………」
その日ばかりは、オットーも完全に沈黙していた。
リーザも、困ったように僕とオットーを交互に見ていた。
僕も同じように、リーザとオットーを見る。
「……オットーお兄ちゃんが頑張っていたの、演技だなんて思えないの」
「…………うん」
「…でも、ヨアヒムお兄ちゃんが昨日わんわん泣いてたのも、演技だなんて思えないの…」
「…うん」
「だけどそうすると、シモンお兄ちゃんを食べた人がいなくなっちゃうの」
「…うん……」
リーザは困っていた。本当に本心から困っているように見えた。
だけどオットーは、恐らく、僕を人狼と決めつけているように見えた。
「…ヨアヒム」
「何?」
「ちょっと前の話だけど、俺の作ったパンの味が変わったって言ってたよね」
「うん」
「……言われてから、何度も試食してみたよ。だけど、味なんてちっとも変わってなかった。焦がしたかなと思って、何度か一番焦げ目の薄いパンをわざと選んで渡したこともあったけど、その時もヨアヒムは苦いって言った。……ヨアヒム、…変わったのは俺のパンの味じゃなくて、ヨアヒム自身だったんじゃないの?」
「………。…同じことを返すよ、オットー。変わったのは僕じゃなくて、オットーのパンの作り方じゃないの?」
「平行線だね。いっそ今からパンを焼いてリーザに試食してもらおうか」
「それに毒を仕込んでリーザを殺せば、後はもうオットーの独壇場だね」
「……………」
「……………」
…このやりとりで、僕はオットーを人狼だと確信した。
味が変わったのは、人狼がオットーに成り代わったせい。本物のオットーは多分もうとっくに死んでいるだろう。
僕はそうリーザに主張した。
オットーも負けじと僕に対抗する。昨日のカタリナの糾弾は事実だったのだと。恐らく無実だろうカタリナがそう言ったのだからと。
リーザは悩んでいた。本当に悩んでいた。
最後の最後に、リーザが謝ったのは…オットーだった。
オットーは、仕方ない歩くかと溜息を吐き、ご丁寧に地図もしっかり用意して村を出ていった。
…恐らく周到なオットーは隣村か、そうでなくとも安全に冬の夜を越えられる場所を確保するだろう。…そう、僕はリーザに言い聞かせた。
「…しかし、明日から暫くこの村でリーザと2人っきりか」
リーザは眠ってしまったので、やることがない。家に帰ろうと思ったが、外の雪が思った以上に強いので僕も今日は宿に残ることにした。
眠くなるまでの暇つぶしに、僕は今日までの顛末を文章に書き残す。
…冒頭、オットーの違和感に気づいたところ。
次は…余計な日は飛ばそう。ゲルトが死んだ日のことについて。話をあんまり聞いていなかったせいで、村長の発言を細かく残せないのが口惜しい。
それから、誰が死んだっけ…?そうだ、エルナだ。なんだか遠い昔のことのように思える。それだけ、昨日と今日が濃かったのだろう。必然的にその辺りの文章も濃くなる。
「記録っていうか、小説…いや、日記みたいだけど、まあいいか」
誰が読むとも知れないものだ。僕が書きやすいように書くのが一番だろう。
最後に、人は減ってしまったけれどこの村が無事に復興するようにとの願いと、僕自身の署名を書こうとして、ふっと気づく。
「…僕の苗字、何だっけ?」
宿の時計が鳴る。午前0時を告げる鐘の音。
シンデレラならばここで帰らなくてはいけないのだけど、僕にはもう帰る場所もない。
窓を見る。分厚い硝子には僕の顔が映る。…そうか、僕は、……。
「…………また、一人ぼっち、か」
額を窓に押し当てると、痛いくらいに冷たかった。その痛みで、ようやく僕は僕の正体を悟る。
僕は、いや、かつて僕だったモノは人間だった。だけど、いつだっただろう。僕はどこからかやってきた人狼に身体を乗っ取られてしまった。
僕の意識だけが僕が人狼になっていたことに気づかないままだった。パンの味の違和感も、リーザやフリーデルに感じた違和感も、全部が全部、僕ではない人狼の無意識に影響されたから感じたのだろう。
「…待って、じゃあ」
僕は気づく。
泣いて忘れようとしたカタリナの言葉。カタリナのメモ。
上着のポケットを探ると、カタリナのメモがあった。それを、人狼でない僕は、"初めて"読む。
「………ヨアヒムさんが、人狼です」
"――ヨアヒムさんは2人きりのとき、わたしのことを、リナと呼びます。"
「…ふ、…ふは、はははははっ!」
……思い出せない。だけど、身体は思い出した。
そうだ、僕は、僕を人狼だと見抜いたカタリナを、この手で殺して……。
後で、ゆっくり食べようと、腐らないように、雪の中に、埋めたんだ。
気づいてしまった。全部理解してしまった。
ああ、僕はなんて滑稽なんだろう。
腹の底から、僕は僕を笑った。
「…ヨアヒム、お兄…ちゃん?…どうし、たの…?」
「…なんだ、リーザ、起きちゃったの?……なんでもないよ、ちょっと面白いことがあっただけさ」
「……でも、ヨアヒムお兄ちゃん、泣いてる」
「ああ、笑いすぎて涙が止まらないんだ。…リーザ、僕のことはいいからもうおやすみ。そうしないと、」
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