―― 卒業式1日前、日曜日

「……っと、…ここで合ってるよな…」

駅近くの古いアパート。…周りは飲み屋やホテルばかりで、あんまり1人で居て居心地がいい場所ではなかった。今は昼間だからまだ子供連れなんかも歩いていたが。
1階の角部屋。チャイムを鳴らすと、すぐに目当ての人が出てきてほっとした。

「いらっしゃい。散らかってるけど、上がって」
「お久しぶりです、先生。…お邪魔します」

2年ぶりに見たイアンの顔は、殆ど変わっていなかった。一方イアンはラルフの頭を、背伸びたなーなんて言いながら撫でる。そういえば頭を撫でるのが好きな人だったなと思い出した。

「…ホントに散らかってますね」
「だから散らかってるって言ったじゃん。その辺の雑誌適当にどかして座ってよ。ベッドでもいいけど」
「じゃ、面倒なんでベッドに」
「何か飲むか?水かお湯かティーバッグのお茶が出るけど」
「………お茶で。…相変わらず頓着しないですよね」
「えー、だって美味い茶なら学校行きゃ飲めるから。家では拘らない」

ティーバッグが浸かったままのコップが差し出される。ラルフがそれに苦笑していると、何かに気が付いたようにイアンがくんくんと匂いを嗅いだ。ちょっと失礼、なんて言いながらラルフの服の匂いも嗅いだ。

「え、せ、先生?」
「……煙草の匂いがしない…」
「…そりゃ、煙草やめましたから。流石に2年も匂い残ったりしないですよ」
「へー、なんだ、完璧にやめたのか。すごいな。俺の中でのラルフのイメージって未だにだるそーな顔しながら煙草吸ってるって感じだったんだけど」
「もうそんなんじゃないですよ。今の俺は生徒会長もやってるんですよ?んで、七転大学医学部への進学も決まりました」
「おおおお、すげーじゃん!?何、どうしちゃったのさ」
「………全部、先生のお陰ですよ」
「よせやい、照れるじゃないか」

照れくさそうに笑いながらも、互いに思い出していた。3年前。志望校に落ちて親族からも無能扱いされて、弟ともぎくしゃくして、何もかもが空回りして、ただただ自暴自棄になっていた頃。こんな高校は俺の居る場所じゃないなんて思って学校をサボり、大人ぶって煙草を吸って、理由もなく街をふらふらして……。そんなラルフを、親身になって受け止めたのがイアン。最初は反発したけれど、イアンが真っ向から向かい合ってくれたお陰で段々、今の状況で自分ができることを頑張ればいいとわかってきた。それは、よく考えれば至極当たり前のことなんだけれども、一人では決して気づくことができなかったように思う。

「…すいません、折角の休日に突然押しかけたりして」
「いいっていいって。もうテストの採点も終わって休日は割とヒマだし。それで、…アレか。告白されたんだっけか。しかも2人から」
「……………はい」
「いや、モテるっていいねえ。とも、言ってられないのか。ネックはどこ?男同士であること?それとも、相手のことを好きかどうか自分でもわからないこと?」
「…男同士、ってのにはそんなに抵抗ないんです。うちの家系、曾祖父さんが同性愛者だったって記録があって、それで1世代に1人か2人はその…曾祖父さんの血が濃く出るっていうか。…俺は、…女の人が苦手なわけじゃないから多分、バイってやつなんでしょうけど」
「じゃ、問題はその2人のどっちが、或いはどっちも好きかどうかわからないってことでいいのかな、メール見た限りだと。ちなみにそれで悩むってことは告白される前から好きだった相手はいないってことでいいんだよね」
「はい。…あんま、色恋沙汰とか興味なかったし、男子校で出会いも何もって感じでしたし」

お茶を啜りながら、話す。ベネットのことはイアンも多少知っているから説明は楽だったが、2年前に異動したためにフィリップのことは1から話さなければいけなかった。お調子者で、お世辞にも頭はいいほうじゃないけれど人気があって、その人望で生徒会に入ってきてそれからの付き合いであると、おおまかに話したのはそんな内容だ。

「なるほどねー…」
「…もう、何か一昨日からずっと頭の中ぐちゃぐちゃしてて。相談したベネットからも告白されるし、どうしたらいいかわかんなくなって……それで、…先生に頼りに来ました。…思いついたの、先生しかいなかったんで」
「やー、そうやって頼られるのは教師冥利に尽きるね。ありがとな、結構人に話すのしんどい内容だったろ」
「……いえ。先生相手なら、…なんか、何言っても大丈夫そうなイメージだったんで」
「それは…。褒めてるのか?」

まあいいや、とイアンが笑って、2杯目のお茶を勧める。それを遠慮せずに受け入れると、そういう遠慮しないところは変わらないなと笑われた。

「…ん、本当ならじっくり考えろって言いたいとこなんだけど、七転の医学部ってことはもうじきここも離れるんだよな?ってことは、時間もそんなにないわけだ」
「……はい。フィリップは俺の気が済むまで考えろって言ってくれたけど、やっぱり………。…中途半端な状態を長く続けるのって、よくないと思うし」
「卒業式、いつだっけ?」
「明日です。そんで、それが終わったら入寮の手続きとか色々あるから一度向こうに行かないといけなくて…」
「うーん…そっか。……俺としては、受け入れる気持ちがないなら断るべきだと思うんだよな。好きじゃないのに無理して付き合うのは双方にとってきついことだ。…昨日、遊びに行ったんだっけ?それでどうだった?」
「…………余計にわからなくなりました。見たこと無い顔が面白かったり、戸惑ったりして…。…2人と一緒にいたいとは、思ったんですけど、それが友達として以外の感情なのかは全く…」
「時間がないのがネックだよなあ。時間さえあればゆるゆる付き合っていくうちに自分の気持ちが見えてくることもあるんだけど……」

やおら、床に座っていたイアンが立ち上がってラルフの隣――ベッドの上に座った。それを特に気にする様子も無いラルフに、イアンが溜息を吐く。

「………あー、ベネットが慌てて告白した気持ちがわかるわ」
「へ?」
「お前、ちょっと危機感なさすぎ」

ドサリ。肩を押されて、唐突に押し倒された。え、と間抜けな声がラルフの喉から漏れる。

「――例えば俺が、昔の教え子のことを忘れられていないなんて可能性、考えたこともないんだろ?」
「……………は…い…?」
「2人きりになるってわかっててのこのこ家にやってきて、無防備にもベッドの上に座っちゃって。挙句横に来ても警戒ゼロ。…襲ってくれって言ってるようなもんだぜ?今まで無事だったのは、お前が男だったからだよ」
「せ、…イアン先生、………な、どうし、て」

声が震えた。――なんだこれ。女の子みたいじゃないか。情けない自分を笑い飛ばしたい気分になるが、そんな余裕もない。肩を押さえつける腕の力は強くて、動けない。イアンの顔が近づいてくる。殊更にゆっくりと。
キスされる。そうとわかっていて、受け入れることなどできなかった。肩を押さえられているせいで満足に上がらない手を使って、拒否する。もがく。顔が近い。――いや、だ。

「嫌だ…!やめ…っ!!たす…」

唇は、3センチ程の距離を残して止まった。逃げるように閉じてしまっていたアンバーの瞳を、恐る恐る開ける。イアンは笑っていた。いつものように。

「ごめんごめん、ちょっとショック療法」
「せ、せんせい…?」
「ほら、そんな泣きそうな目するなって。ホントに襲っちゃうぞ?ん?」
「なっ、…は、離してください!!」

そう言うと手は簡単に離れた。すぐさま身を起こして、服やら髪やらを整える。視界がぼやけていることに気づいて、乱暴に目元を拭った。

「俺にされるのは嫌だって、はっきりわかったんだろ?」
「…………」
「今みたいなことをその2人にされたらってちょっと想像してみ?どっちのことも今と同じくらいに嫌だと思ったら、友達以上の関係にはなれないと思うから断ったほうがいいと思う」
「……………」
「逆に言えば、嫌じゃない、受け入れてもいいって思えるならオーケーするのもありだと思う。それから先は付き合ってみなきゃわからん」
「……俺、は……。…はは、…ははは…参ったな。…どっちのことも、そんなに嫌じゃないって思ってる…。………俺、節操なしですかね」
「や?それもありだと思うよ。でも両方選ぶなんて贅沢はできないからなあ。……じゃあ、俺が想像してみろって言ったときに、先に思い浮かんだ方はどっちだ?」
「……………っ…」

イアンが笑う。ラルフはそれにうっと言葉を詰まらせた。先に思い浮かんだほう。――それは奇しくも、嫌だと思ったとき、もう一言、喉から出掛かった"助けて"という言葉を向けた相手と………同じだった。

「えっと………その、…ありがとうございました」
「ん?結論出たのか?」
「……多分。…少なくとも、ここに来る前よりは、頭の中はすっきりしました」
「そりゃ結構。……でも、ひとついい事を教えてやろう。俺は何もしてない。俺に話したぐらいで結論が出るってことは、お前の中にはもう最初から結論があったってことだよ。その結論が何処にあるかを見つけるのが、難しいんだけどな」

ちなみに、とイアンが自分の携帯を開いてみせる。待ちうけ画面には若い女性が映っていた。何かスポーツをやっているのだろうかと思うような小麦色の肌。中性的な雰囲気で、明るい性格なんだろうなというのがその1枚の写真から伝わってきた。

「コレ、俺の嫁な」
「…えええ!?先生結婚してたんですか!?」
「籍はまだだけど、婚約指輪はもう渡してある。今の学校の同僚だから、すぐに結婚ってわけにもいかなくてさ。春休みになったら小規模だけど式も挙げるつもり」
「はー…。おめでとうございます。…これで、少しはこの部屋もマトモになるんですかね」
「ああ、多分な。細かいところまで気が利くし、何より、彼女の淹れる紅茶は絶品だから」
「…なるほど」

だからさっき、学校で美味しいお茶が飲めるから家では拘らないと言ったのか。ラルフはほっと溜息を吐いた。――行為自体は荒療治でも、"昔の教え子のことが"――はもしかしたら、本当なのかもしれないと思っていたから。
それもきちんと否定されて安堵した。…これ以上誰かから好意を寄せられていたら、ありがたい反面、多分身がもたない。




novel menu next