「…に、するんだいきなり…!フィリップ置いてきちまったじゃない、か」
「あはは、ごめん。…でも、さ。おれもラルフに言いたいことあったから。本当は今日の帰りに言おうと思ったんだけど、我慢できなかった」
細い通路の先、殆ど人が通らない階段近くで2人は対峙していた。ラルフが壁際に追い詰められる格好で、2人の距離はベネットから一方的に縮められていく。昨日の今日だ。流石にラルフもある程度は察した。だが、幼馴染のこいつが、という思いがその直感を否定する。それもすぐに無駄に終わったが。
「――…っ、ん…!」
甘い口付け。比喩ではなく、本当に甘かった。きっとさっき食べたジェラートの味だ。ラルフはミントを食べたが、確かベネットは――。
「ミントってあんまりすきじゃないな、おれ。ストロベリーで塗り替えてあげる」
「ベネ…っ、やめ、人来たらどうす」
「こんな階段、誰も通らないよ。…ね、ラルフ。ずっと黙っててごめん。というか、おれは黙ってるつもりだった。ラルフと友達じゃなくなるのは嫌だったし、あの後輩クンのことをラルフが本当にすきなら祝福しようと思ってたよ。本当だ。…でも、今日いままでの様子見てて、思った。……おれは、あの子にラルフを渡せない。渡したくない」
囁かれる言葉も、唇と唇が触れてしまいそうなほどに近い距離で。そしてどちらも女性に見える外見ではない。人が通り、誰かに見られたら。当然そういう誤解は免れないわけで。
「おま…少し、離れろ」
「嫌だ。もう止まらないよ。壊れそうだ。おれ、ラルフのことが本当にすきだよ。思う気持ちではあの子に絶対負けない。……ねえ、ラルフ、キスしていい?」
さっきは勝手にしたくせに――そう思ったが、ベネットの表情から、できる限り冷静になろうとしているのは窺えた。本当は、欲のままに口付けたいのを我慢しているような、そんな、餓えた獣のような表情。
最初に浮かんだ感情は、恐怖だった。十数年間一緒だった幼馴染の、男の顔。知らないことなんて無いと思っていた相手の、知らない部分。それはまるで、そこに居るのが"ベネット"ではないみたいで――…。
「――っ…」
「…………ごめんね、困らせて。…だけど、あの子に渡すくらいなら…今、ここで、おれがラルフを攫いたい。このまま、見つかる前に何処かに行っちゃおうよ…」
「ベ、ネット…」
その時。着メロが鳴った。音量自体はそれほど大きくないものの、人のいないそこで突然鳴り響いたそれは心臓が止まりそうな程に2人を驚かせた。
「あ…フィリップだ」
「!」
「…出るぞ。どの道、俺あいつに荷物持たせてる。このまま勝手に帰るなんてできない」
ピ、と音を立てて通話ボタンが押される。もしもし、とできる限り平静を装って言った。
「あー…えっと、自販機の近く。喉渇いたって…言うからさ、うん。……ああ、いや、俺らが行くよ。どこにいる?…うん、……うん、わかった。すぐ行く」
電話を切るまでの間、ベネットは少し離れた壁に寄りかかって大人しくしていた。それは、拗ねているようにも、必死で自分を押さえ込もうとしているようにも見えて、なんだか痛々しかった。
「……聞こえてたろ、戻るぞ」
「………うん…」
弱々しい返事に、泣きそうだ、と思った。いつもならここで頭を軽く撫でてやるのだが、今日はそれができなかった。手を伸ばせば、今度こそベネットはその手を離さないだろう、そんな気がしたから。
「悪い、勝手にはぐれて」
「…いえ」
はぐれた場所に戻ると、フィリップは明らかに機嫌が悪そうだった。多分、フィリップも何があったか察しているのだろうとラルフは気付く。…それからの買い物は、なんだか散々だった。一緒に夕食を、という話を言い出す者もなく、結局夕方に解散の流れになった。
「……じゃ、俺の家こっちなんで」
「あ、…ああ。また、…月曜にな」
「おつかれさま、フィリップ君」
駅の出口で、フィリップが去っていく。フィリップに持たせていた荷物はこんなに重かったのかと、ラルフは思った。荷物よりも気持ちのほうが重かったが。
「………………」
「………………」
2人きりで帰る道も、きまずい。どうしてこうなったのだろうと、何かを恨むような気持ちにもなった。――悪いのは多分、2人から告白されて、どちらとも選べない自分自身なのだが。
「……またね」
「………ああ…またな」
ベネットが玄関を開けて家の中に飛び込んでいくのを見送ってから、ラルフも自分の家の玄関を開ける。気分が重い。今日はさっさと寝よう、と思いながら階段を自室に向かって昇っていく。と、普段は誰もいないはずの部屋から音が漏れていることに気付いた。
「あ、お帰り兄さん」
「………ただいま。…帰ってたのか」
「うん…春からはまた実家暮らしだから、荷物をちょっと運んでおこうと思って…」
ラルフの足音に気付いて部屋から出てきたのはラルフの弟だった。双子の弟で、外見は瓜二つ。だけど、中身は正反対と言ってもいいくらいに違った。性格だけなら、ベネットのほうが余程兄弟に見える。…そういえば、昔はそれを気に入らないと思ったこともあったか。
「わ、荷物一杯。買い物してきたの?」
「ああ」
「そっか。……ねえ、兄さん。……まだ、俺のこと、むかつく弟だって思ってる?」
その聞き方にはどこか不安が混じる。…中学時代、2人は同じ有名進学校を目指していた。だけど、受かったのは弟だけ。兄のラルフは、滑り止めで受けていた七転学園にしか受からなかった。その時に、家を継がせるのを弟のほうにしようかと本気で親族会議が行われたこともあった。そのせいで、兄弟の絆はどこか歪んでしまった。弟の通っている進学校が全寮制であることも、仲直りの機会を失わせている理由の一つだった。
「……できればそろそろ、…仲直りしたいよ」
「…………わかってる。…とりあえず、荷物置いてくる」
「…うん、そだね。引きとめてごめん」
ぱたん、と小さな音を立てて扉が閉められる。――数ヶ月ぶりに会う弟とは、世間話すらろくにできなかった。ジャケット勝手に借りて悪かったとか、話すことは、きっかけは、色々とあるはずなのに。
扉に鍵を掛けてから、ベッドに倒れこんだ。色んなことがありすぎて何から処理すればいいのかわからない。
「……………なんなんだよ…」
疲労感から、煙草に手を伸ばす。だけど、火はつけない。家族はラルフが煙草を吸っていたと知らないし、それに、煙草は1年の時に担任に注意されてやめている。吸わない煙草を持っているのは、癖のような、まじないのようなものだ。
「…そうだ……」
こういうとき。――何か、悩み事があるとき。いつも、親身になって話を聞いてくれたあの担任のことを思い出す。今は異動して隣の市の高校にいるが――…。
「……イアン先生なら、何かいいアドバイスくれるかな」
縋るような思いだった。打ったメールは、携帯で読むにはかなり長いものになった。後輩と幼馴染に告白されたこと、弟とは相変わらず上手くいってないこと、質問文すら不明確なその相談は、イアンにはどう思われただろうか。
返事が来たのは、随分と後になってからだった。その返事を見て、ラルフの重かった心は、ほんの少しだけ軽くなる。
『恋愛相談と家庭内の相談だな?任せろ、オレが解決してやる!^▼^
でもメールだけじゃちと状況がわかりづらい。明日暇ならうちに来いよ。異動はしたけど七転市から引っ越してないから、オレの家はわかるだろ?うんめーメシ食いながら若人の悩みを聞こうじゃないか!』
「…センセ、相変わらずだな」
若いせいか、ノリが非常に軽い。それでいて、人の心を深く理解できる人だった。志望校に落ちて、親族からもお前は価値がないと扱われて、学校をサボったり、煙草を吸ってみたり。そんな荒れ方をしたラルフを救ってくれた。だからきっと今回も、なんて、思う。
「………………」
行きますと返事をした直後にメールが来た。ベネットからだった。今日は本当にごめん、できれば明日、また会いたい。長いメールを要約すると、そんな内容だった。だが、既にイアンに行くと言っている。ベネットには断りの返信をした。
ベネットからの返事は、なかった。
novel menu next