[雨音]




窓の外を透明な滴が伝った。嫌な雨だ。そう思った。雨は強いわけでもうるさいわけでもない。だけどそれは村から音を消し去ってしまう。人の笑い声も鳥の囀りも猫の鳴き声も。雨の日は静かだ。今、僕の耳に聞こえているのは薬缶が沸くシュンシュンという音と、紅茶の缶を探している彼の足音だけだ。
見つからないなあとぼやく彼に僕はないならいいよと言った。それなら何を飲むのさ、まさかお湯をそのまま飲む気じゃないだろうねと返されたのでそれでもいいと答えておいた。

オットーが用意してくれたものなら何でも美味しいから

それ女の子に言ったら絶対嫌われるよ

呆れたように言う彼に僕は曖昧に笑む。何、と問われたので愛してると返したら会話が噛み合ってないと怒られた。他愛のない時間。ああ、このまま永遠に時が止まってしまえばいいのにとすら思う。だけど時の流れというのは無常で、雨は人々の声を返さないまま夜に空を明け渡し、彼は紅茶の缶を見つけた。
彼はその紅茶がいかに珍しくて、高くて、美味しいものかを説明してくれたけれど僕にとっては彼が淹れてくれたというだけで十分だった。さっきの言葉もあながち冗談ではない。彼は信じてくれないだろうけれど。でも、それでよかった。

なくなっちゃった

もう一杯飲む?

うん

じゃあちょっと待ってね

わざわざ新しい茶葉で淹れ直す彼に僕は出涸らしでいいよと言った。彼が絶対に妥協しないことを知りながら。案の定彼はダメと短く返事をしてまたきっちりとティースプーンで茶葉を測り始めた。僕は待っている間に彼が昼に焼いていたパンを頬張る。ここ数日は非常事態だからと凝った菓子パンは焼かず、コッペパンばかり焼いていた。その彼が今日は僕のためにと僕が一番好きだったバタージャムパンを焼いてくれたのだ。バターといちごジャムをパンからはみ出るくらいに挟んだそれは僕専用の特別メニューだった。もっとも、特別だから彼も滅多なことでは焼いてくれない。僕の誕生日とクリスマスの年に2回だけ。そして今日はそのどちらでもなかった。

ごめんね

僕はそう言わずにはいられなかった。今日という日を特別な日にしてしまったのは他ならぬ僕だったからだ。彼は一瞬だけ意味がわからないというような顔をしてから、僕の言いたいことを察したらしく、謝るくらいなら最初からするなと言った。正論だった。見上げた彼は笑っていた。怒ってはいなかった。二杯目の紅茶もやっぱり美味しかった。彼も僕の隣に腰掛けて紅茶を飲んでいた。美味しいと笑ったその表情には、自信が見え隠れしていた。彼もこの紅茶が美味しいのは茶葉のせいだけではないことを知っていたんだろう。だけど、彼の答えはいつだって僕と違っていた。

ヨアヒムと物を食べると何でも美味しいよ

それは女の子に言ったらどういう意味になるの

魅力的だという意味になるね

ふうんと興味なさそうに返事をしてみたけれど、内心僕は照れていた。まさか男に言ったら180度意味が変わるということもないだろう。僕のことを、他の人のことを、滅多なことでは好きと口にしない彼のこういう言葉は貴重だった。できれば僕を名指しで魅力的だと言ってもらいたかったけれど多分そんなことを要求したら叩かれるのが落ちだろう。僕は黙っていた。
いつもならこのままなし崩しに食事の時間が終わってなし崩しに僕が泊まるか帰るかのどちらかなのだけれど、今日は彼のほうから僕を誘う言葉があった。僕が拒否をするはずもなかった。
食器を片付けてくるという彼に必要ないよと笑って僕は彼を押し倒した。口では呆れた、けだもの、と言う彼も内心では片付けなんてどうでもよかったんだろう。すぐに僕の背に腕を回してその黒い瞳で僕を見上げてきた。そういえばベッド以外でするのは初めてだなとか思いながら、狭いソファの上で二人抱き合った。ソファでの情事に多少の不便は感じたけれど、ベッドまで移動する時間が惜しかった。それくらい僕は餓えて切羽詰っていた。

ヨアヒム

彼の声は女の子のように高いわけでも可愛いわけでもない。それでも頬を赤く染めながら少し掠れた声で僕の名前を呼んでくれる彼の声は女神の歌声よりもきれいだと思っていた。それをそのまま伝えると、女神の声なんて聞いたことないでしょと冷静に返されてしまった。僕が言葉に詰まると、彼は、でもありがとうと僕の耳元で囁いてくれた。これで我慢しろというのは無理な話だと思う。本当に獣なんだねえと彼は感心したように呟いてから僕を受け入れてくれた。
段々お互いに余裕がなくなってくる。無駄口が減り、抑えきれなかった喘ぎと、心臓の鼓動と、肌がぶつかる音しか聞こえなくなる。ここまではいつもと同じだった。多少シチュエーションが違うだけで大体は。けれど僕にしがみついて僕を強請る彼が、その黒い瞳をしっかりと開いて僕に言った。

僕の全部をあげる

その言葉を聞いた瞬間僕の理性は完全に切れた。首に噛み付いて貪るように腰を打ちつける。彼の喉から漏れる声はそれまでとは明らかに質を変え、意味を成さなくなった。黒い瞳は少しずつ焦点が合わなくなり、恐らく生理的なものだろう涙が彼の頬を伝った。ヨア、ヨアと声にならないままに動いていた口もやがてその動きを止める。愛してると最後に聞こえたのは、錯覚ではないはずだ。

僕も愛してるよ

快楽と甘美と幸福が全て混ざり合った最高の瞬間が終わって、やっと僕が彼にそう返事をしたときには彼はもう死んでいた。きれいだと思っていた彼の顔も事が終わり命まで終わってしまえば随分と彼らしくない間抜けな表情をしていた。目は半開きで口の端からはだらしなく血と唾液を垂らしたまま。僕はそれを丁寧に舐めて拭った。甘かった。繋がりを静かに抜いてから、僕は彼の遺言通り彼の全てを僕の胃の中に収めた。終わったときにはソファは真っ赤に染まっていた。どう片付けたものかという考えは浮かばなかった。このままでいいと思った。どうせ雨が上がって朝になっても彼の惨状を確かめに来る人間はいない。
音を消し去る雨。それは僕自身のことだった。一緒に過ごしてきた村の人、平穏、愛する人すら奪い去って、僕は何処に行くというのだろう。雨雲のようにまた別の村へと流れていくのだろうか。そんな行為の繰り返しに意味があるのか僕にはわからなかった。それでも、彼は僕にそうあることを望んだのだ。だったら僕は行くしかない。村の人間全てを裏切って僕を生かすことを選んだ彼のためにも。

さよならオットー

外に出ると、すぐさま僕の頬を透明な滴が伝った。嫌な雨だ。そう思った。





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