その青年はずっと俯いて、淋しそうな笑みを浮かべていた。
「僕は役立たずだから」
そう言って笑う彼。
「僕は役立たずだから、言われたことも満足にできないんだ。瓶入りのジャムはいつも間違えたものを取ってきて、オットーさんには溜息吐かれた。ヤコブさんの畑に行ったときは何度か野菜に気づかず踏んじゃって叱られた。エルナさんに雇って貰った時は…うん、確か言われた布と糸を引き出しから出すことすらできなかったんだ。エルナさんは一人でやったほうがマシって言ってたよ」
なんでこうダメなんだろう。
彼は笑いながらもふっと溜息を吐いて、こんな話してごめんとまた謝って笑う。
その繰り返し。
「弟がいるんだけどさ、凄く優秀でね。大学に行くって張り切ってるんだ。…お陰で最近は家の中でも居場所がなくて。だからいつもここにいるんだ。寝るときもここだよ」
ここ。
夕立が降る、ただの木陰。
彼の全身はしっとりと濡れている。風邪を引いてしまうと俺が言うと彼は笑った。
「心配してくれるんだ…行商人さんは優しいね」
その、皮肉でもなんでもない心からの台詞に。俺は思う。
彼を救いたいと。
[盲愛]
俺が人狼となったのは2年前だった。
人狼の血をなんらかの形で体内に取り込んでしまうことにより、人狼と化してしまう…後天的人狼と呼ばれるそれだった。
俺の場合は大雨の日に土砂崩れに巻き込まれて重傷を負い、その時輸血された血が人狼の血だった。
そのことを特にどうとも思わなかった。輸血がなければ死んでいたし、土砂崩れは天災なので誰を恨んでも仕方がない。人狼そのものへの偏見も抵抗も元々なかったから、俺は自らの変化をそのまま受け入れた。
食人衝動に目覚めてからもそれはあまり変わらなかった。食べなければ生きていけないのは人間だろうが人狼だろうが同じで、ただ、食べる物が違うだけの話。
そう、思っていた。
行商であちこちの村を回りながら、村人を一人だけ食べるのが常になっていた。
村を滅ぼそうなんて気には全くならなかったし、一人、誰でもいい、もうすぐ死にそうな老人でも、はしゃぎ回っている子供でも、誰でもいいから一人こっそり頂いてそっと村を去る。
村は混乱するが、じきに忘れる。このご時勢、行方不明だの失踪だのそう珍しいことじゃない。近くに川やら森やら崖やらある村の場合は尚更だ。
今も、ある村に来ていた。
適当に商談を終えて、もうそろそろ食事をして帰ろうかと思っていた。誰がいいだろう。中々適当な人物が思い当たらない。
考え込んでいると、ぽつ、と雨粒が顔に当たった。雨は弱かったが暫く続きそうだったので一度宿に帰ろうと歩き出す。
その時、人の影が見えた。
最初は死んでいるのかとすら思った。
雨の中、木の下でぐったりとしているのだから。
少し不安になって声を掛けた。今になって思えば、何故すぐに食べなかったのかが不思議だ。
そうして起こすとまず驚いた顔をされて、驚いたのはこっちだと返して。
名前を聞いて、彼の身の上話をぽつぽつと聞いて。
彼の淋しそうな笑顔に、俺は胸が締め付けられた。
――食べてしまおうか。
最初はそう思った。彼ならば、きっと、いなくなっても怪しまれない。
だが、それはあまりにも悲しい気がした。
誰にも心配してもらえないだなんて。
いなくなってくれたほうがいいとすら思われているなんて。
それはあまりにも。――あまりにも悲しかった。
だから…もっと、もっと違う形で彼を救えないか。そう考えた。
俺は、彼の頭を軽く撫でた。彼が驚いたように俺を見る。
「なあ、ヨアヒムはこの村の人間が好きか?」
その質問に彼は戸惑ったようだった。
だがやがてゆっくりと口を開いた。
「…わからない。嫌いだと思ったことはないけど、好きだと思ったこともないから」
「家族も?」
「……正直、あまり好きじゃない。いつも僕を見下してるから。でも、離れたら生きていけないから…僕一人じゃ、食費も稼げないし」
「そうか…」
「行商人さん、どうしてそんなことを聞くの?」
「んー…。…俺さ、人狼なんだ」
その言葉は驚くほどさらっと出た。
あ。と思ってから俺はそっと彼の顔を覗き込む。
こう言われたら普通なら飛び退って逃げるか、誰かに知らせに行くか、恐怖で動けなくなるかのどれかだと思ったが。
彼は特に表情を変えていなかった。逃げる気配もなかった。
「そうなんだ」
「驚かないのか」
「驚かないよ。こんな雨の中うろついて、僕とこんな長話してる時点で変わった人だってのはわかってたし」
でも、と彼が続ける。
「それなら食べてほしいな、僕のこと。僕、使えないやつの癖に死ぬ勇気はないんだ」
「それは…自分を犠牲にして他の村民を守る、ということじゃないよな?」
「違うよ。ただ単に…楽になれるなら、そうなりたいだけ」
「……………」
「疲れたんだ、もう」
彼は泣かなかった。
理由を聞くと、泣いたってどうしようもないなんてことは子供の頃に学んだから。
そう言った。
どうしたら彼を泣かせられるだろうか。
喜びの涙や、心からの笑顔をどうやったら彼に与えられるだろう。
とにかく、彼をこのまま終わらせたくない。
そう思った。
ただの同情。
そうなのかもしれなかった。
いや、この際そんなことはどうでもいい。
俺は彼を抱きしめた。
そうして、何故か泣いていた。彼じゃなく、俺が。
変わった人、と彼の声がした。
――数日後。
「行商人さん。…この村ってこんなに広くて静かな村だったんだね」
「…その行商人さんってのやめようぜ。俺の名前はアルビン。いい加減に慣れてくれよ」
「あ、…ごめんなさい…」
「いや怒ってないから。そんなにしょげるなよ」
俺は彼の髪を撫でた。
彼が複雑そうな顔を浮かべる。どう反応していいのかわからない、そんな顔だった。
「しかし、役立たずとか言ってたけど全然そんなことなかったじゃないか。立派だったぜ。特にトーマスを吊り上げたあの演説。最高だった」
「そ…うかな。そうだとしても、全部アルビンさんの教えのお陰だよ」
「いや、ヨアヒムのアドリブが大分入ってた。なんだここまで喋れるなら手取り足取り教える必要はなかったな、と思ったぜ」
「そ、そんな」
村は滅びた。
真っ先に彼に疑いが向き占われたが、結果は人間。
彼を占い、いや処刑すべきだと主張してきた者たちが疑いあう展開となった。
俺が共有者たちを葬り、上手くまとめ役を乗っ取った彼は、後はただひたすら俺を占わせないよう、処刑させないように行動してきた。
結果は、文句のつけようもない勝利。
晴れた夜空に輝く満月がまるで俺たちを祝福しているようだった。
「運が良かったんだと思う。まだ幼いペーターが真占い師だったからこそ、僕が占い先を決めることができたんだし」
「運も実力のうちだ」
「………そうかな」
「ああ」
彼の頬を撫でた。少し彼が固まる。
「え」
「これからなんだが、…俺についてきて一緒に商売しないか?」
「…え、ええ!?む、無理だよそんなの!!」
「大丈夫。きっと出来るから」
「な…なんでそんなことが言え……」
「ヨアヒムが何を何故不得意とするのか、俺にはわかるからだ」
「え?」
「ヨアヒムのこれまでの失敗談には共通点がある。…色を区別できないことだ。それも、特定の」
「色…?」
「瓶入りのジャムを間違えたのは、ラベルが貼っていない瓶の中身だけを見て判断することができなかったから。野菜を踏んだのは、地面の色と野菜の色の区別がついていなかったから。布と糸を間違えたのは…もうわかるよな?」
「………そ、そう…そうなの!?…………確かに、左右違う色の靴下を履いて笑われるなんて、日常茶飯事だったけど…」
でもどうしてそんなことがわかったの、と彼が言う。
寧ろ、どうしてこの村の誰も気づかなかったのかと問い返したかった。
……少し見ていれば、簡単にわかったはずのことだった。
それは裏返せば、誰もこれまで彼をちゃんと見ていなかったということ。
思わず溜息が漏れそうになった。
「…決定打となったのは、あの明るい部屋で床と血溜まりの境目が見えてなくて思いっきり血を踏んで驚いていたことだな。恐らく赤色系統がよく見えないんだろう」
「……………」
「……でも、お前には喋る能力がある。数は問題なく数えられる。一人で行商やっていくのはきついかもだが、俺がいれば大丈夫だろ?」
「…だ…だけど…自信ないよ。…そんな欠点があるって聞いたら尚更……」
「平気だ」
俺は月を指差す。
「月を見て、どう思う?」
「…綺麗で…だけどどこか怖ろしいもの…」
「十分だ。狼の素質もあるな、ヨアヒムは」
「えっ…」
戯れにそっと口付けた。
頬が真っ赤に染まるのが面白い。
「愛してる」
そう言うと、彼はついに泣き出してしまった。
いわく、そんなことは生まれて初めて言われた、と。
泣きじゃくる彼を、俺はそっと抱きしめた。
腕の中の温もりに愛おしさを感じつつ、これから始まる二人旅にそっと思いを馳せた。
novel menu