――。
何が起こっているのか、オットーには理解できなかった。
咽るような血の匂い、父親と同じ服を着た肉の塊、母親と同じ顔をした残骸、妹と同じ髪の色をしたモノ。
ただ一人生き延びた彼はわけもわからずに立ち尽くした。やがて現実を呑み込んだ頭が、途端にその現実の否定を始める。
嘘だ、これは嘘だ、何かの間違いだ。そう、夢だ。夢に違いない。
夢ならば早く、早く目覚めてくれ。そうじゃないと、狂ってしまいそうだ。この現実は現実として受け入れるにはあまりにも―――。
「うっ…うわああああああああああああああっ!!!……っ!?」
はあっ、はあっ、と荒い息を上げながらオットーは目を覚ました。無意識に服の襟を掴み、左右を見回す。そこは見慣れた自分の部屋で、窓ガラスには大人になった自分の顔が映っている。夢と気づきオットーは深く息を吐いた。背を濡らす汗がどうにも気持ち悪い。
ベッドサイドに置いてある写真立てに手を伸ばす。そこには若い男女と幼い男女の子供が2人写っていた。それを胸に抱えて強く抱きしめる。
家族旅行中に起きた忌まわしい出来事。それは11年経った今でもオットーを強く強く苦しめ続けていた。
[phase 2 -人喰い狼-]
――深夜、村の南にある教会にて。
修道女、フリーデルは幾度目と知れぬ祈りを捧げていた。いや、祈りというよりは懺悔というべきか。フリーデルは今、強い罪の意識に苛まれていた。
ぎぃ、と音を立てて教会の扉が開く。はっと振り返るとそこには神父、ジムゾンがいた。
「神父様…」
「………シスター」
「…私は、神を裏切りました…シスターを名乗る資格など、最早…!」
今にも泣き出しそうなフリーデルを見、ジムゾンは苦しそうな表情を浮かべる。
「…さっき、上に書簡を出してきた。…何も心配はいらない。私がついているよ」
「……!」
フリーデルはとうとう泣き崩れた。ジムゾンはフリーデルをそっと、抱きしめる。壊さないように。護るように。
「…フリーデル…泣かないでくれ。君は何も悪くないんだ」
「いえ、私は…私は…っ…。こんな…申し訳ありませんっ、神父様まで巻き込んで…!!」
「………大丈夫だよ、フリーデル。…私もいずれこの村を離れればならない運命だったんだ」
ステンドグラスから差し込む月の光が、二人をただ照らしていた。
――翌朝、宿にて。
「―――クララが…?」
パメラは青白い顔をしてそう呟いた。レジーナが静かに頷く。
「嘘でしょ…?どうして…」
「…………」
「絶対に行かないって約束してくれたのに…」
うわごとのように嘘、と繰り返すパメラの背をレジーナはそっと撫でた。
「……………自業自得」
二人とは少し離れたところでココアを飲んでいたヨアヒムはそうぽつりと呟いた。とても小さい声だったのでそれは二人の耳には届かない。
「…おはようレジーナ。コーヒーもらえ……って、あれ、パメラ…ヨアヒム?」
静かに戸を開けて宿に入ってきたのはオットーだった。若干憔悴した表情に、ヨアヒムはああ"アレ"かと心の中で頷いた。
「あいよ、コーヒーね。ちょっと待ってて」
「……何かあったの?パメラ」
「パメラの友達が森に入ったんだよ」
「っ…!?」
それだけで意味を察したオットーが息を呑んだ。やり切れずパメラから目をそらすとヨアヒムと目が合う。ヨアヒムはほんの一瞬薄笑を返し、またココアに静かに口をつけた。
「ヨア…?」
「…なあに?」
「……ヨアヒムは、なんでこんな朝早く…?」
「眠れなかったからレジ特製ココア飲んで寝ようかと思って」
「って…これから寝るの?」
「うん。無職は簡単に生活リズムが崩れるんだよ」
レジーナからコーヒーを受け取り、オットーは軽く頭を下げてヨアヒムの向かいの席に座った。ヨアヒムはちら、とオットーを見。
「オットーも眠れてないみたいだね」
そう口にした。
「……ばれたか」
「ばれるも何も。何年幼馴染やってると思ってるのさ」
「ヨアが生まれた時からだね」
「うん。………ごめん、ありきたりな言葉だけど。元気出して」
「……ありがとう」
オットーは湯気を立てるコーヒーを一口、呑み込んだ。温かさが胃から身体全体へと染み渡っていく。
「…もう11年も前のことなのに」
オットーがそう、ぽつりと口にする。ヨアヒムは特に続きを促すことも話題を転換することもせず、ただ黙っていた。
「未だに夢に見るよ。あの日のこと…景色…記憶…。…いつまでもこんなんじゃいけない…変わらなきゃって…わかってるけど」
「オットーは変わったよ。この11年で。今は立派にパン屋なんてやって自立してるじゃないか」
「……中身は全然。子供のままだよ」
「…中身も外見も全然変わらない僕はどうしたらいいのかな」
「働け」
「ゴメンナサイ」
くす、とオットーが微笑う。それを見てヨアヒムも笑った。
「…ありがとう」
「へ?」
「今の俺があるのは、村の皆のおかげ。…特にヨアヒムには感謝してるよ」
「…………僕もオットーには感謝してるよ」
「ん?」
「こんなプーの僕にも美味しいご飯食べさせてくれるから」
「働け」
「ゴメンナサイ」
「…あ、もう行かなきゃ。モーリッツさんが来ちゃう」
「あー…そっかぁ、もうそんな時間かー…。僕も帰って寝よう」
朝一番に来る客のことを思い出し、オットーは席を立った。ヨアヒムも一緒に席を立つ。
「ごちそうさまでした!」
「ごちそうさまー」
「あいよ。また来るんだよ」
「…パメラ、元気出して」
「…………うん…」
「パメラ、くれぐれも探しに行こうなんて考えないでよね」
「………うん…」
宿を出てオットーと別れた後、ヨアヒムはふう、と溜息を吐いた。空を見上げて暫し何かを考えた後、家ではなく教会の方向へと歩き出した。
――教会前にて。
ヨアヒムが教会につくと、ジムゾンが教会前を掃除しているのが見えた。
「ジムゾンー!」
「…ヨアヒム?珍しいね。お祈りかい?」
「ううん。…別の用件」
それだけで察したのかジムゾンは小さく頷くと教会の戸を開けた。ヨアヒムが中を覗くとフリーデルが黙々と祈りを捧げているのが見えた。
「……………」
「…フリーデル。ちょっといいだろうか」
「は…はい!?」
フリーデルは素っ頓狂な声を上げて振り返った。どうやら二人が中に入ってきていたことに気づいていなかったらしい。
「ヨア…ヒムさん?」
「うん。お久しぶり、シスター」
「………」
「…どうし…」
「ヨアヒム」
呼びかけただけで今にも泣きそうに俯くフリーデルに何があったのかと聞こうとしたが、それはジムゾンに阻まれた。
「すまないが…今はそっとしておいてほしい」
「…え?……わかった」
「フリーデル、君も…。…あのこととは別に、私は君に話さねばならないことがある。聞いてもらえるだろうか」
「…は…い…?」
ジムゾンが奥の扉を開ける。そして二人を手招きした。
――数週間後、パン屋にて。
いつもと同じパン屋に、金髪の、珍しい客がやってきた。
「オットー、ミルクパン2つちょうだい」
「…えっ、ゲルト?久しぶり!いつ戻ってきたの?」
街の大学に通う学生、ゲルトがオットーを見てにっ、と笑う。
「今朝だよ。とりあえずレジの宿に寄って…それからふとオットーのパンが恋しくなったから来ちゃった」
「…ありがとう」
ミルクパンを袋に詰めて手渡すと、ゲルトは1つを袋から取り出した。ここで食べていい?と聞いて、オットーが頷くと同時に口に含む。
「ん…あまーい。やっぱりオットーのパンはいつ食べても美味しいね」
「ありがとう。ゲルトはちょっと見ない間にお世辞が上手になったね」
「ええ?本心だよ」
あっという間にパンを食べきると、そういえばとゲルトが切り出した。
「噂に聞いた程度なんだけどさ…。…川の向こうにある村が人狼で滅んだらしいよ」
オットーの手が止まった。
「人狼…」
「………この村にも近いうちに狼が来るかもしれないから気をつけろ、ってさ」
「……………そう」
「この話、まーだ他の人には内緒だからね?オットーだから、特別」
「…わかった」
特別の意味わかってるのかなあ、とゲルトはぼやきながらももう行かなきゃとパン屋を後にした。
「………人狼がこの村に…?」
冗談じゃない。オットーが最初に思ったのはそれだった。家族旅行中に人狼騒ぎに巻き込まれてオットーは両親と妹を亡くした。それ以来ずっと心の奥底で狼を憎み、できればもう二度と関わりたくないと思っていた。
何故。何故あんなものが生まれ、人を食い、生きているのだろう。
「…人狼なんて」
苦虫を噛み潰すような表情でオットーはそう呟いた。
――深夜、森の中。
その人狼は静かに村に忍び寄っていた。
いや、正確に言えばそれは世間一般に知られる"人狼"ではなかった。古い時代に生まれ、寿命を迎え身体は朽ちるも、魂だけ生き残った存在。生活には他人の身体を借りて行う――憑狼と呼ばれる種類のものだった。
憑狼は空腹だった。暫く人間に会わず、先日小さな村を見つけたと思ったらそこはもう既に他の人狼によって滅ぼされた後だったのだ。
おまけに最後に憑依した女は、病気もちだったらしい。咳が止まらず、歩くだけで苦しい。空腹と憑依先の身体の不調で憑狼はもう限界だった。
やっとのことで森を抜け、村に入る。そしてたまたま森の近くを歩いていた村人を音もなく、食い殺したのだった。
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