――ある年の初夏、宿屋にて。
「そうかい、南部から…。こんな遠いところまでご苦労さん」
宿屋の女主人、レジーナはそう言いながら微笑を浮かべた。それに応じるように旅人も笑みを返す。
「たいしたことはありませんよ。私はあちこちの国を旅していますから」
旅人はいただきますと小さく口にしてから目の前に差し出されたコーヒーを啜った。
「ところで、こんな何もない村に一体何の用だい?」
「…ふふ、それは内緒です。あ、コーヒー美味しかったです。ごちそうさま」
それでは暫くお世話になりますね、と旅人は一礼しあてがわれた部屋へと階段を上っていった。
その背を見送り、レジーナがはぁと溜息を吐く。
「…また"アレ"目当ての人?」
少し離れた席で黙って紅茶を飲んでいた若い娘、パメラが小声でレジーナに聞いた。
「まあ、そうだろうねえ。十中八九…」
「…………可哀想な人」
パメラはカップの中を覗き込む。そこには言葉とは裏腹に、全くの無表情の彼女が映っていた。
[phase 1 -神隠し伝説-]
――同時刻、パン屋にて。
「オトお兄ちゃん、コッペパン3つちょーだい!」
「コッペパン3つね、ちょっと待って…ってリーザ、お母さんは?」
「きょーはリズひとりできたの!おつかいだよ!」
パン屋の青年、オットーはそれを聞いて一瞬目を丸くしたがすぐにえらいえらい、と柔らかい笑顔を浮かべて言った。
焼きたてのコッペパンを3つ袋に詰め、カウンターから出る。そしてリーザと呼ばれた少女の前に屈みこんで袋を渡した。
「はい。お待ちどうさま」
「ありがとう、オトお兄ちゃん!お金が、えーっと…10、20、30…」
「うん、丁度いただきます。どうもありがとう。また来てね」
オットーがリーザの頭を軽く撫でるとリーザはえへへ、ととても嬉しそうな笑顔を返す。そして力いっぱい頷いて外へと駆け出していった。
「………」
「鼻の下伸びてるだよ、オットー」
「わっ!?ヤ、ヤコブ!?いつの間に…」
「今来ただ。約束のトマト持ってきただよ」
そう言ってにっ、と笑うのは農夫のヤコブだった。両手で抱えたカゴの中には綺麗な赤色のトマトがぎっしり詰まっている。
「あっ、わざわざありがとう。でも俺が取りに行くって言ったのに…」
「いいっていいって。ついでだべ。それにオットーはこの時間は忙しいだろ?」
オットーは首を横に振る。
「今日はそんなに。…何か静かなんだ。パメラもヨアヒムも来ないし…」
「パメはさっきレジーナの宿でお茶してただが…。ヨアがいないのは珍しいな」
「そうなんだよね。いつも営業妨害に来る無職がいないとなんか不気味」
「ひどい言いようだべな」
そう言いつつヤコブはくすくすと笑う。オットーがヨアヒムに対して少し辛口で物を言うのはいつものことであるし、寧ろそれが一種の愛情表現だと知っている。
「もうすぐ20歳になるのに。いい加減手に職を持ったらどうかなあ…」
「あっはは、あの怠け者が真面目に働きなんかしだしたら狼が来るだよ」
「…………」
狼、という言葉にオットーの顔から一瞬笑みが消える。それをヤコブは見逃さず、しまったというように頭をかいた。
「…あ、すまん。…つい…」
「……ううん、いいんだ。気にしないで。あ、トマトのお礼するよ。何か食べていく?」
「いや、おらはもう帰るだよ。まだちょっと作業残ってるだで。それじゃあ」
「うん、ありがとうね」
ヤコブを見送り、オットーははぁ、と深く溜息を吐いた。
「…ダメだなあ………」
もう11年も経つのに、と小さく呟く。手近にある椅子に座り、天井をぼんやり見上げる。
その日最後の客が現れるまで数時間、オットーはずっとそうしていた。
――翌日、村はずれにある森にて。
その日、旅人は村の誰よりも早く起きて宿を出た。そうして誰にも見つからないように森へと向かう。
何かを探すように左右を見回しながら森を進むその姿は不審以外の何者でもないが、旅人はそんなことは全く気にしていない様子だった。
やがて旅人は何かを見つけ、一直線にそこへと向かう。
「あった…!」
旅人が見つけたのは、小さな泉だった。朝日を反射してきらきらと輝く水面は、旅人が求めていた"それ"を象徴するかのようだった。
旅人はいそいそと持ってきた荷物を草の上に下ろした。そうして必要な道具を取り出そうとしたところで………何かの気配を感じ、振り返った。
だが、誰もいない。ぐるっと見回してみたが兎一匹見つからなかった。
「気のせいか…」
きっと興奮しているせいだ、と自らに言い聞かせ旅人は荷物に再び手をかける。
それが、旅人の記憶の最後だった。
――数日後、宿屋にて。
「レジーナ、お茶もらえる?」
「はいよ…っと、見慣れない顔だねぇ。お客さんかい?」
「は…はい。はじめまして。街の図書館で司書をしています、クララと言います。えっと、よろしくお願いします…」
「そうカタくならなくていいよ。アタシはレジーナ。よろしくね。クララもお茶でいいかい?」
「は…はい」
パメラに促され、クララはカウンター席に座った。暫くおどおどした様子で辺りを見回していたが、目の前に紅茶のカップが出されるとそれにゆっくりと口をつけた。
「ところでレジーナ、例の旅人さんのことだけど…」
「…パメラ、その話は今は…」
「いいのよ。この子、そういうことに興味あるらしいから」
「…………こんな若い娘まで…?」
「あ、あのその、私は泉の財宝には興味がないんです!ただ、その…神隠し…について…色々と調べてまして…」
「しーっ。…この村の中で泉のことを大声で言うのはタブーよ」
「あっ、ごめんなさい…。つい…」
しゅん、と落ち込んだ様子のクララにレジーナは軽く溜息を吐きながら、まだ帰ってないよ、と小さく口にした。
「そう…」
パメラは微かな無念さを声色に滲ませながら、だが少しも驚いてはいなかった。
まるで旅人が帰ってこないのが至極当然であるという様子であった。クララはその様子をほんの少しだけ疑問に思いながらも、レジーナに質問を投げた。
「…あの……。その、泉に向かって行方不明になった人って一体どれくらいいるんですか…?」
「…宿に泊まっていった連中だけでよければ…この10年でざっと30人前後。直接泉に向かった連中と、先代がこの宿を管理していた頃の話は…ちょっとわからないねぇ」
カリカリ、とメモを取る音が静かな宿に響き渡る。
「やはり皆…泉の中にある…ものを目当てに向かったのでしょうか?」
「そういう連中が大半だけど、中にはクララみたいに神隠しそのものに興味を持って泉に向かった連中もいるよ。…くれぐれも、行くんじゃないよ」
「わ…わかっています」
クララは大げさに二、三度頷いた後、再びペンを走らせた。
『"神隠し伝説"について』と書かれたそのノートをパメラはただ何も言わず見つめていた。
――その数時間後、パン屋にて。
「オットー!今日のお昼はハンバーガーがいいな!」
「うわ、出た無職」
入ってくるなりオットーに無職と呼ばれた茶髪の青年、ヨアヒムは笑いながらもほんの少し口を尖らせた。
「無職ってひどいなー。ちゃんとお金は払ってるよ?」
「それとこれとは別。無職なのは事実でしょ。いい加減何かしたら?」
「だって働かなくても生きていけるしー」
「…ったく、おばさんたち泣くよ?」
はぁ、と溜息を吐きながらも先程焼きあがったパンを手馴れた所作で2つに切り、間にレタス、トマト、羊肉のハンバーグを挟んでいく。最後に自家製の特製ソースを少しからめて皿に載せた。
飲み物は聞かずともわかっている。砂糖とミルクをたっぷり入れたミルクティもさっと淹れ、ヨアヒムの前に出した。
「わーいっ、いっただっきまーす!」
満面の笑みでハンバーガーを頬張るヨアヒムに、オットーの口元がほんの少し緩む。弟がいたらこんな感じなんだろうなと思い、そこで少し表情が翳った。
妹が……リリが生きていたら、きっと今頃は…。
「オットー!」
「へっ!?…え、何?」
「どうしたの?難しい顔して黙っちゃって。お疲れ?」
「あ…ううん、ちょっと考え事」
「そっかぁ」
いつの間にかハンバーガーは全てヨアヒムの腹の中に収められていた。ストローの飲み口を唇で噛みながら、そういえば、とヨアヒムが言う。
「例の旅人の話って聞いた?」
「―――うん、またあの泉に人が行ったんだって?」
「案の定帰ってきてないらしいよ。全く、懲りないよね。どいつもこいつも」
パメラから聞いた話をオットーは思い出す。今年に入って――村の人が把握しているだけでそれは既に3人目の神隠しだった。特に珍しくもないことで、森に立ち入る人間の自業自得だと思っているオットーの反応は薄い。
だがヨアヒムは違った。神隠しが起こるたびに不快感を露にする。…それは、日頃穏やかな彼からは想像もつかないほどの態度だった。
「なんであれだけ言っても書いても人が立ち入るんだか。こんなど田舎に財宝なんてあるわけないのに」
「………そうだねぇ…」
ヨアヒムがこの件に対してぐちぐち言っている間は放っておくのが一番だとオットーは知っていた。下手に行方不明者の肩を持とうものなら七面倒臭い議論へと発展してしまうから。
窓の外にふと目をやる。文句のつけようもないほどの快晴だった。これだけいい天気なら"生きていたら"ひょっこり帰って来られるかもしれないな、なんてオットーは思う。
もっとも、帰って来た者など誰一人いないのだが。
「全く、レジーナたちも放っておかないで止めてほしいよね。ちゃんと。そういう奴らは止めたってどうせこっそり行くんだって言うのもわかるけどさ。それでも…」
「ねえヨア」
「何?」
「その旅人さんが来たのって、3日前だっけ」
「…そうだけどそれが?」
「その日ヨアヒムは何してた?」
オットーがそう口にしたのは単なる興味だった。あの日――ヤコブがトマトを持ってきた日――は珍しくヨアヒムが来なかったのだ。その翌日も。次の日…つまり昨日になってまた何事もなかったかのようにひょっこり顔を出してきた。
「………何って?家にいたよ?」
「そっか」
「…………」
ヨアヒムの表情が一瞬だけ強張ったのをオットーは見過ごしていた。いや、仮に見ていたとしても大して気に留めなかったかもしれない。そのくらいオットーにとって神隠しはどうでもいい、自身には関係のないことだった。
そして会話が途切れる。放っておいても喋り続けるヨアヒムが黙るなんてことは珍しいことで、それでも、神隠しについて何か考えているんだろうなとオットーは無理に話しかけようとはしなかった。
事実ヨアヒムの視線はオットーではなく、空になった皿の上に向いていた。何を考えているにせよ、オットーと会話する気はないらしい。
ヨアヒムが黙っている間に残った仕事を片付けるか、とオットーが軽く腕まくりしたその時だった。
「ヨア兄いたー!!」
突然の大声にヨアヒムもオットーも揃って声のほうを見た。パン屋の入り口には幼い少年、ペーターが立っていた。
「どした、ペーター?」
「ちょっと来てヨア兄!!リーザの帽子が木の上に引っかかっちゃって!」
「ん、わかったって。…だから服引っ張るなー!伸びるー!…じゃあね、オットー!」
ペーターにぐいぐいと袖を引っ張られながらも器用に空いた手で銀貨をテーブルの上に置くと、二人はそのままパン屋を飛び出していった。
その顔にはさっきまでの難しい表情は何処にもなく、その様子に何故かオットーは安堵感を覚えていた。
――村の中央にある大樹にて。
「おー。アレか」
「うん。…取れる?ヨア兄」
「任せとけって」
木の枝に引っかかった麦藁帽子を確認すると、ヨアヒムは器用に木を登り始めた。そしてあっという間に目標の枝へとたどり着く。
その様子を見守っていたリーザとペーターも思わず声を上げた。
「すごーいヨアお兄ちゃん!」
「さっすが!」
「へへっ、もっと褒めていいよ!」
子供二人からの声援に機嫌を良くしたのかヨアヒムはその木の枝の上を立って歩き、帽子を手に取る。
リーザは思わずきゃっと小さい悲鳴を上げたが、ペーターはすごいすごいと興奮していた。それを見てヨアヒムはにっこり笑う。
丁度そこに宿から出てきたパメラとクララが通りかかった。ヨアヒムは大きく手を振って二人に呼びかける。
「おーい!パメラー!…っと赤毛のお姉さーん!やっほー!」
「!…きゃあっ!?」
「こらーヨアヒム!危ないわよ!?」
「平気平気………うおっとぉ!」
ずる、とヨアヒムの足が滑る。落ちる、とその場にいた全員が思った。
「……なぁんてね?」
しかしヨアヒムは木から落ちることなく、先程まで自分が立っていた枝に片手でぶら下がりながらへらっと笑っていた。
「あ……あ……よかっ…」
「脅かすんじゃないわよ!バカヨア!さっさと降りなさい!!」
「はいはい、わかったよー」
する、と手を離し、ストンと綺麗に着地する。そしてリーザの頭に帽子を被せた。
「ありがとうヨアお兄ちゃん」
「どういたしまして」
「全く、相変わらず猿みたいな運動神経してるのね」
「それ褒めてるのー?」
リーザとペーターは再び広場へと駆け出していった。ふっと、ヨアヒムがクララに視線を向ける。
「えっと…どちらさま?」
「あ…あっ、あの、初めまして!街の図書館で司書をしていますクララといいます!パメラさんとお友達で…」
「そっかぁ、僕はヨアヒム。よろしくね」
ヨアヒムが右手を差し出す。握手を求められているのだと気づいたクララは大慌てで手を出そうとして、抱えていた本とノートを落としてしまった。
「あっ、ご、ごめんなさい!!」
「だ、大丈夫?」
ヨアヒムがさっと屈んで散らばったそれを拾い集める。ふと、ヨアヒムの目に"神隠し伝説"の文字が留まった。
「……………これ…」
「あ……それは…」
「…ふうん、今時は女の子もこういうのに興味持つんだね」
「ヨアヒム」
ヨアヒムが声色に僅かに不快感を滲ませたことに気づき、パメラはヨアヒムを制そうとした。だがヨアヒムはそれを聞かずクララをじっと見据えて言う。
「…森には絶対に立ち入るな。入ったらもう、二度と生きては出られなくなる」
「……!?は、…はい…」
「ちょっとヨア…!」
「んー、僕もう疲れちゃった。今日は帰って寝るね、おやすみー」
「……………」
ひら、と手を振ってヨアヒムは家へと駆け出す。それを見送った後クララはそっとパメラを見上げた。
「……あいつね、どうしてか知らないけど神隠し伝説のこと凄く嫌ってるのよ。だからあいつの前でだけはこの話はしないでね」
「は、はい」
「…ちょっと怖く見えちゃったかもしれないけど、本当はいいヤツなのよ?…きっと誰かが消えてしまうのが嫌なだけなのよ」
「そ、…そうですね」
クララは僅かに俯く。
だがその瞳には決して揺らぐことのない決意が湛えられていた。
――深夜、村はずれの森にて。
クララは森に来ていた。心の中で村の皆さんごめんなさいと何度も呟きながらも前に進む。
もう二度と生きて帰れないかもしれない、その恐怖はあった。しかしここまで来て伝説の真偽を確かめずに帰ることなどクララにはできなかった。
それにもし万一生きて帰れたら。財宝が眠るという泉が実在したら。その興味がクララの足を動かしていた。
「………あ…!!」
ほどなくして泉が見つかった。慎重にほとりに近づいていく。
持ってきたランタンで泉を照らすと、澄んだ水の底、確かに何かが沈んでいるのが見える。
「まさか…ここに沈んでいるのが………」
見たところそれほど深い泉ではなさそうだ。これならば何か道具か、あるいは潜る用意をしていれば底に沈んでいるものを引き上げることは可能だろう。
だがクララはそれを持ってきてはいない。ひとつ頷き、泉の存在とその底には確かに何かが沈んでいるという事実だけを持って帰ろうと振り向いた。
その時突然、グルルル…と低い唸り声がクララの耳に届いた。驚いて辺りを見回す。ここは森の中だ。野生の動物ぐらいいたっておかしくない。
早く帰ろう。そう思ってクララが駆け出そうとした瞬間。
「やっぱり、来てしまったんだね」
「ひいっ!?」
クララの左手を、誰かが掴んでいた。咄嗟にランタンの明かりをそちらに向ける。そこには昼間会った青年、ヨアヒムがいた。
「ヨ…ヨアヒム…さん!?」
村の人は誰も近づかないと言われているこの泉にどうして村の人が?とクララの脳裏に疑問がよぎる。そしてそもそも何故腕を掴まれているのかがわからない。
「残念だけど、この泉を見てしまった以上帰すわけにはいかないよ」
「な…何をおっしゃっているんですの?…ヨアヒ…!?」
ぐちゃり。クララの耳にその音が届いた直後、首に激痛と熱が走った。パニックになって叫び声をあげようとするも、声が出ない。その状況がますますクララを混乱させる。
何が起きたのかわからない。
激痛と熱は数秒で収まり、次に急激な眠気に襲われた。それに抗えずクララは目を閉じる。そうしてそのまま二度と目覚めることはなかった。
力の抜けた手から、カラン、とランタンが落ちて泉へと沈んでいった。辺りは再び闇に閉ざされる。
「……………」
クララを放し、ヨアヒムは自分の手をじっと見つめた。ぬるつく手。不意にその感触に嫌悪を覚え、泉に手を突っ込んで洗った。どうせまた汚れるのに何をしているのかと微かに自嘲を浮かべる。
「…だから来るなって言ったのに」
ヨアヒムはクララに覆いかぶさる。そうして、血を流す首元へと舌を這わせた。
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