それは"音"だった。
人の声のようにも聞こえたが、ヨアヒムにはその意味が理解できなかった。だから単なる雑音、自分には無関係なものとして処理しようとしていた。
だが、日増しにその音は強く、激しく彼の耳と意識を蝕んでいった。
彼を苛むのは音だけではなかった。
眠ると繰り返し見る"夢"。いつも目覚めたときに内容は忘れてしまうが、不快である、ということだけははっきり覚えていた。
お陰でここ数ヶ月ろくに睡眠をとれていない。気を抜けば真っ昼間でも倒れて眠ってしまいそうだが、眠ると夢を見て目覚める。悪循環だ。
そして今日もまた彼は目覚める。夢という不快な世界から逃げ出して、彼にとっての現実――医院の手伝い――に戻っていった。



[ルナティック]



この村に住むヴィンセントは優秀で温厚な医者だった。彼がヴィンセントの医院で働くようになったのも、幼い頃に大病をしたのがきっかけだった。そのときの記憶は大分曖昧だが、熱にうなされる自分の手を彼が握って励ましてくれたことだけははっきり覚えていた。

ヨアヒム、――――ヨアヒム?


ヴィンセントが彼を呼ぶ。彼は過去の回想を断ち切って、返事をした。

なんですか?先生。

最近顔色悪いけど大丈夫かい?最近寝不足気味だって言ってたけど、昨日はちゃんと寝れた?

彼は曖昧に笑った。ヴィンセントに心配をかけたくはなかったのだ。第一ヴィンセントは外科医で、精神的なものは専門外だ。言ってもしょうがない、ともヨアヒムは思っていた。

大丈夫ですよ、これくらい。

そう言いながら、カルテの整理を終える。トントン、と机の上で紙を揃えファイルに綴じて棚に仕舞う。そうしながら彼はふっと、さっき目に入った名前を口にした。

ところでモーガンのお爺さん。どこか調子悪いんですか?

ん、ああ……。…まあ、モーガンさんももう大分お歳を召していらっしゃるからね…。心配するようなことじゃないよ。


そうですか、と呟き。村の長老ももうそう長くないんだな、と心の中で思った。ヴィンセントは嘘が下手だ。医者にとってそれはいいことなのか悪いことなのかわからないが、だからこそ愛されているのだろうと彼は思った。


不意に"音"がした。
いや、これは"声"だ。誰かの声。だが靄がかかったような、聞いたことも無いような異国の言葉のような感じで全く何を言っているのかは聞き取れない。
大体今ここには自分とヴィンセントしかいない。そんなものが聞こえるはずはないのだ。ヨアヒムはヴィンセントに気づかれないようにぐっと目を瞑った。強く意識を集中させて音を追い出す。やがて何も聞こえなくなると、そっと目を開けてふうと大きな溜息を吐いた。

それじゃあ、僕はもう帰ります。また明日。

ヴィンセントは何か言いたげに口を開いたが、すぐに曖昧な笑顔を浮かべてまたね、と彼に手を振った。







時刻は深夜2時を回っていた。あまりの眠れなさに少し酒でも入れようとヨアヒムは赤いワインを口にする。…ふと、このワインを持ってきたのは誰だろうと考えた。ワインなんて自分じゃ絶対に買わない。そう、誰かから貰ったんだ。でも誰だっけ?女性だった気がする。今度皆で呑みましょう。なんて笑って……皆?皆とは誰のことだろう。思い出せない。この村の中でそんなことを言いそうなのはシャーロットかレベッカ、あるいはローズマリーだろうか。
しかし彼はその誰とも親しくなかった。少なくともこんな、彼の月給の半分は持っていかれそうな高級ワインをやすやすとくれるほどの間柄じゃない。
…ま、いいか。彼はそう呟いてもう一口ワインを口にした。このワインは随分前から家にあった。仮に皆で飲むワインを自分が預かっていただけ、なんてことだったとしてももう時効だ。渡した本人だって忘れているに違いない。

気がつけばボトルは空になっていた。
とろんと溶けた思考でそろそろ寝よう、と考え眠りにつく。その日の夢は真っ赤な海で泳ぐ夢だった。どこまで泳いでも岸に着かない。地獄のような夢だった。
当然目覚めがよいわけはなく、やり場のない苛立ちを感じながらヨアヒムは日の出と同時にのろのろと起き上がった。ぶつぶつと取り留めのない独り言を呟きながらカーテンを開ける。その瞬間、ヨアヒムは息を呑んだ。
窓の外が白かった。雪景色の形容ではなく、本当に一面白の絵の具で塗りつぶしたかのように何もない。ただ白いだけ。大慌てでヨアヒムは寝間着のまま外に飛び出した。
白い。ただひたすらに白い。地面だけはしっかりとそこにあるようだが、強く踏み叩いてみてもジャンプしても音一つしない。これは夢だ、と言い聞かせながら恐る恐る一歩踏み出す。二歩、三歩。前に進んでも景色が一切変わらないので進んでいるという自覚がない。不意に恐怖にかられて振り返った。さっき飛び出した家ははるか後方にあり、慌てて戻ろうと走っても一向に距離は縮まらない。息が切れるまで走り続け、やがて彼は諦めてしゃがみこんだ。
これは夢だ。そうでなければこんな世界はありえない。こんな悪夢、早く終わってくれ。彼がそう願うと同時、またあの"音"がした。
夢の中でまでこの音に悩まされるのか。彼は耳を塞いだ。だが音は直接頭に流れ込み、いくら耳を塞いでも効果はない。


"音"は"声"だ。誰かが話しかけている。誰に?彼にだろうか。
見えない話し相手に向かって彼は手を伸ばした。意味などないと知りつつも。だが意外なことに伸ばした手の先に何かが触れたのだ。何も見えないが、何かが自分の手に触れている。いくら夢とは言え気味が悪く、彼は咄嗟に手を引っ込めた。
"声"がした。何かを残念がるような響き。とうとう耐え切れず、彼は口を開いた。


いい加減にしろ!何か言いたいのなら僕の前に姿を現せ!!


そう叫ぶと、"音"は消えた。彼は喜ぶ。苛むものがなくなって。あとはこの真っ白い世界から抜け出すだけだ。でも焦る必要はない。これは"夢"なのだから、朝が来れば終わる。そしてまたいつものようにヴィンセントの医院に行って――――――いつもの日々を―――…すご…。





――――――……。





白いベッド、白い壁、白い服、白い肌。
"彼"の髪と四角く切り取られた空だけがこの部屋に色をつけていた。

コンコン、とノックの音。誰も返事をしなかったが、ノックの主は扉を開けた。黒髪で、無表情の青年だった。右手に小さな紙袋を持ち、左手で扉を閉める。ベッドの上の"彼"を見て青年は溜息を吐く。

「まだ夢を見ているの?」

青年はそう口にした。"彼"は返事をしない。
眠っているわけではない。"彼"の瞳は確かに開いている。しかしその瞳からは輝きが失われ、恐らく何も見えていない。この状態がもう半年以上も続いているのだ。
青年は"彼"の手を握る。聞こえているかはわからないが、"彼"にこうして話しかけるのが青年の日課になっていた。

「昨日はね、皆で慰霊祭をしたんだ。…もう、あの騒ぎから半年経ったからね。あっと言う間の半年だったよ。死んだ人は帰ってこないけど…村は大分元通りの落ち着きと賑わいを取り戻したよ。…あとは、ヨアヒム、君だけだ」


青年が"彼"の手を握る手に力をこめる。半年前の忌まわしい事件。その時に一番心に傷を負ったのが、"彼"だった。
人狼。そう呼ばれる存在が村に現れ、村人を食い殺し始めた。その最初の犠牲になったのが"彼"の家族とその恋人――ただ"彼"だけが狼の気まぐれによって残されたのだ。
目の前で大切な人を食い殺された"彼"はその日以来、何も喋らず、何も見ず、何も聞かないヒトになってしまった。人狼退治が終わり、隣村の医師に見せたところ首を横に振られた。恐らくもう一生このままだろう、と。

「………ねえ、ヨアヒム。今君が見ている"夢"の中では、君は幸せなのかな?」

"彼"の茶色の髪を青年がくしゃりと撫でる。あんなに艶やかでふわふわと柔らかかった髪も、今はぼさぼさで見る影もない。

「現実は辛い…けど、帰ってきてほしいんだ。また…ヨアヒムの笑顔が見たいから…」

青年は語りかける。持ってきた袋を開け、中に入っているパンを見せる。新作だから、よかったら食べてね。そんなことを言いながら、笑う。
相槌を打つ者はいない。ただ青年自身の声が壁に反射して戻ってくるだけで、後は気味が悪いほどに静かだった。


やがて青年は席を立つ。明日もまた来るね、と言い残して病室を去っていく。






静寂に包まれた真夜中の病室の中。
"彼"の瞳から涙が一滴、零れていった。





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