[晴れの日]
僕は雨が好きだった。
正確に言えば、晴れの日が嫌いだった。
どうしてかって?
晴れの日はいつも外で遊んできなさいって母さんが言うから。
その頃の僕に仲良しの友達と呼べる人なんていなかったし、
女の子達のままごとに混ぜてもらうのもなんだか気が引けてできなかった。
だから僕は晴れの日はいつも、村のはずれにある空き家の中で本を読むか絵を描くかして過ごしていた。
その男の子がこの村に引っ越してきたのは、僕が12歳のときの夏。
父親を交通事故で亡くして、母親の実家があるこの村に戻ってきたらしい。
僕とは対照的に元気一杯で裏表のない性格だった彼はすぐに村に溶け込んだ。
女の子達からも大人気で、村の大人達が将来が楽しみだなあなんて彼をからかったりもした。
僕はそんな彼のことを素直に好きにはなれなかった。
楽しそうな彼らに背を向けて、僕はまた独り空き家に篭った。
秋も深まってきた頃、僕はいつものように空き家に篭っていた。
この季節は好きだった。適度に雨が降るし、景色が綺麗だから。
窓の外に見える、紅く染まった山の絵を描いていたら、突然山の半分が何かで隠れた。
驚いて、僕は絵筆を放り投げて窓へと駆け寄る。窓を開けると、わっ!と大きな声を上げて誰かが僕に手を伸ばした。
わあっ、と僕はそれ以上に大きな声を上げて尻餅をついた。
見上げると、彼がいた。へへ、びっくりした?なんて言いながら無邪気な笑みを浮かべている。
僕は暫く呆然とした後…なんだか無性に腹が立った。
静かに絵を描いていたのに。どうして邪魔するんだろう。
文句の一つでも言ってやろうと口を開きかけたときには、もう彼はそこにはいなかった。
――これ、君が描いたの?
背後から聞こえてきた声に僕は振り返る。
いつの間にか彼が部屋の中にいて、僕の絵をまじまじと見つめていた。
――そうだけど、それがどうしたの。
見られたくなかった。僕にとって絵は描くこと自体に意味があって、誰かに見せたいと思って描いていたわけじゃないから。
僕は立ち上がった。彼を追い返そうと思って。
ところが彼はまるで太陽のような笑顔で僕にこう言ったんだ。
――すごく上手!
そんなことを言われたのは初めてで、僕は最初、どう返していいのかわからなかった。
どうしたのと彼が僕の顔の前で手をひらひらと振ってようやく我に返って、
――ありがとう。
って搾り出した。それが精一杯だった。
その後は彼から矢継ぎ早に繰り出される質問にひたすら答えていた。
名前に年齢、いつから絵を描いているのかとか、この家は誰の家なのかとか、いつもここにいるのかとか、彼のことを知っているかとか……。
…気づけばもう全く関係のない話になっていて、僕は彼のペースに知らないうちに飲み込まれていたことに気づく。
不思議な人だ、と思った。
決して彼1人で喋っているわけじゃない。
口下手な僕も喋るようにと、うまく誘導している。
――あ、もう夕方だ。
そうして彼が終わりを告げるまで、僕達はずっと喋り続けていた。
パレットの上の絵の具はとっくに乾いていた。
明日もここで絵を描くの?彼はそう聞いてきた。
僕が、晴れたら、と言うと彼はにこっと笑って、じゃあまた明日ねと言う。
僕はどうして明日晴れるってわかるの、と聞いた。
そうしたら彼は胸を張ってこう言ったんだ。
――俺が晴れるって言ったら晴れなの!
あまりにも彼が自信満々なものだから僕は思わず笑ってしまった。
彼は口をちょっと尖らせて、とにかく明日は晴れなんだよ、って呟いていた。
彼のお陰で僕の暗い性格も少しずつ直っていった。
嫌いだった晴れの日が好きになり、逆に彼と会えない雨の日が嫌いになった。
彼と会うのもあの空き家だけじゃなく、彼の家や、僕の家、はたまた村の広場で女の子達とも混ざって遊んだりした。
それが楽しくて、いつの間にか独りで絵を描くこともなくなっていった。
僕は幸せだった。彼のことが大好きだった。
大人になって、僕は父さんの跡をついでパン屋になった。
僕の作ったパンをお店に並べられるようになるまでかなりの時間がかかったけれど、その間も彼はよく僕のところに来てパンの試食をしてくれた。
オットーの作るパンは甘くて美味しい、彼はいつもそう言ってくれた。
彼がこの村に来てから何度目かの夏の日のことだった。
村一番の楽天家のゲルトがこんな噂を僕に教えてくれた。
――人狼がこの村にいるんだって。
南のほうにある村が人狼によって滅んだらしく、生き残った人狼がこの村にやってきた、ということらしかった。
らしい、ばかりであまり信用できる話じゃない。僕は軽くゲルトの話をあしらった。ゲルトも、信じてないけどさ、人狼なんておとぎ話だしと笑っていた。
ゲルトが帰るのとほぼ同時に彼が店にやってきた。
僕は彼に同じ話をする。そして、最後にこう付け加えた。
――いるわけないよね、人狼なんて。
彼もゲルトと同じように笑っているわけないと答えてくれると思っていた。それがいつもの彼だったから。
だけど彼は珍しく言葉を詰まらせた。
僕が名前を呼ぶと、いるわけないよって苦笑交じりに返してきた。
その日彼はパンを買ったらすぐに帰ってしまった。いつもなら軽く30分は居座るのに。
僕は何かあったのかなと首を傾げつつ、彼を見送った。
翌日、ゲルトが狼に食い殺されていた。
村の人達は大慌てで対策会議を始めた。
だけど狼のほうが常に村人の先を行っていて占い師を名乗ったパメラや霊能力者を名乗ったヤコブ、
共有者を名乗ったシモンとジムゾンを次々と食い殺していった。
僕達村人も必死で頑張って人狼のトーマスとクララを見つけ出して処刑した。
だけどそのために犠牲になった人はあまりにも多くて……。
狼がいなくなっても、どの道この村は滅びそうじゃのう、とモーリッツ爺さんが呟いた。
今生き残っているのは占いで人間と明らかになったモーリッツ爺さんと、パメラに対抗して占い師を名乗ったペーターと、僕、そして…彼だけだった。
彼はゲルトが殺されてから、一度も笑わなくなっていた。
僕とも目をあわせようともせず、必要最低限を喋るだけで後はずっと押し黙ったまま。
まるで別人だと一度人狼疑惑をかけられてしまったけれど、こんな状況でにこにこ笑っていられるほうがどうかしている、と僕や他の何人かが擁護したお陰で彼はまだ生き残っていた。
だけどペーターは、彼を人狼だと言った。
嘘だ、ペーターは偽者だ、パメラが本物の占い師だったんだ、…そう、僕は声が枯れるまで言い続けた。だけど。
――今日の処刑は、ヨアヒムじゃ。
モーリッツ爺さんがそう言った瞬間、目の前が真っ暗になった気がした。
――嫌だ!
僕はそう叫んでいた。
彼が僕を見る。彼は驚いているようだった。
――ヨアヒムが人狼なんて嘘だ、僕は信じない!ヨアヒムを殺すくらいなら―――…!
いっそ、僕を殺してくれ――。
そう叫んだ瞬間、今度は目の前が真っ白になった。
あれ、と思う間もなく足から力が抜ける。僕はそのまま倒れ、意識を失った。
目を開ける。だけど真っ暗闇で、何も見えない。
少しして、目の上に柔らかい何かが乗せられていることに気づいた。
それをどかそうと手を伸ばす。
――オットー。
そのとき、彼の声が降ってきた。ああ、彼がいる。僕も彼の名前を呼んだ。
――ねえヨアヒム、あれからどうなったの?
彼の手が、僕の髪を撫でる。心地いい。
――人狼は退治できた?村はどうなってるの?
彼が笑った気配がした。静かな静かな、微笑だった。
――全部終わったよ。もう村はこれ以上人狼に怯えなくていいんだ。
――本当?
――うん。
静かだった。
僕と彼の音しか聞こえなくて、まるで真夜中のような。
羊の鳴き声も、鳥の囀りも、子供たちの笑い声も何も聞こえない。
まるでこの世界に僕と彼しかいないみたいだった。
そう、実際に僕と彼しかいなかった。
僕の目の上に乗せられているのは毛で覆われた彼の本来の手で、
この少しだけツンとくる鉄の匂いはまだ新しい血の匂い。
でも僕の体はどこも痛まないから、きっとペーターかモーリッツ爺さんの血なんだろう。
そこまでぼんやりと考えて、僕は目を閉じた。
――見られたくないなら見ないから。
僕がそう言うと、そっと彼が手を退ける。
僕が目を開けていないことに安堵したのか、彼は静かに溜息を吐いた。
――ごめんね、騙してて…。
彼がそう言う。
――謝らないでよ。それに、僕は怒ってなんかいないよ。
――だってヨアヒムが僕の友達だって事実は変わらないんだから。そうでしょ?
――………そうだね…。
――ねえ、笑ってよ。僕、ヨアヒムの笑顔が一番好きだよ。
あの幼い日に僕に見せてくれたあの笑顔を、もう一度。
だけど僕の頬に降るのは生温い水ばかりで、彼は目を開けることを許してくれなくて、
僕はとうとう最後の瞬間まで、彼の笑顔を見ることはできなかった。
僕は雨が嫌いだった。
正確に言えば、晴れの日が好きだった。
どうしてかって?
晴れの日はいつも、大好きな友達に会えたから。
だから泣かないで。
僕は雨が嫌いだから。
太陽みたいに笑ってる、君の笑顔が大好きだから。
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