夕焼けの赤色が、大きな風車に遮られる。
子供達の笑い声、釘を打つ規則正しい音、どこからともなく漂ってくる美味しそうな匂い。
ああ、これは夢だ。
私がまだ人間として生きていた頃の記憶の再生。
この夢は幾度も見た。結末も知っている。
だから私は本能的に願う。目覚めたい、続きを見たくないと。
だが一度だって目覚められたことはない。この夢の、この村の終焉を見るまでは。
『ニコル!』
銀髪の柔らかい髪を三つ編みにした可愛い少女。
彼女はこの当時の私にとっては一番の親友で、憧れの存在だった。
『なに?エリザ』
『明日ね、お家でエリザの誕生日パーティなの!来てくれる?』
『行く!』
彼女の九歳の誕生日。
私にとって、一生忘れることのできないあの日。
見たくは、ない。
『明日ね、エリザのお誕生日なの!パーティに行ってくるね!』
『明日?』
母親が少し考え込む。当時の私には全く理解できず、今の私にはその意味がわかる。
『行ってもいいわ、でも、日が暮れる前に帰ってくるのよ』
『どうして?』
『明日は満月だからよ』
満月を見てはいけない。私はずっとそう言い聞かされて育ってきた。
だけど理由がわからなかった。
他の人に喋ってもいけないと言うので、誰にも満月を見てはいけない理由を聞けなかった。
きっと皆、私と同じように満月を見られないのだろうと思っていた。
そして翌日。大勢が招かれた誕生日パーティも終わりに近づいた頃。
彼女が私にそっと耳打ちをしてきた。
『ねえねえニコル。パパがね、望遠鏡を買ってくれたの!これでお星様を見ない?』
日が暮れる前に帰ってこいと言われていたけれど。
彼女があまりにも楽しそうだったから。
今日は彼女の誕生日なんだし、それくらいの我侭は。
そう思ってしまった。
私は頷く。彼女の家で、夜になるのを待つ。
『綺麗!お星様がよく見えるわ!』
『本当?』
『うん、ニコルも見て!』
筒を覗き込む。
星が、今まで見たこともないほど鮮明に見えた。
『すごい!』
『でしょ?ねえ、それって何座だと思う?』
『え、うーん…わかんない』
『そっかぁ…。あ、そうだ!パパが星座の本持ってるの!ちょっと借りてくるね!』
彼女が小走りで部屋を出る。
私は夢中で望遠鏡を覗き込んだ。
他にもっと綺麗な星はないかと、綺麗な星を見つけて彼女に見せたいと。
望遠鏡を動かして。
『―――!?』
月を、見てしまった。
私は叫び声をあげる。
身体が熱くて、喉が渇いて、飢餓感に襲われて、狂ったように涙を流す。
驚いた彼女が戻ってくる。
『どうしたの!?ニコ…』
ここから先の記憶は当時の私にはなかった。
でもこの、私が私を俯瞰する夢の中では鮮明だ。
尖った耳と、鋭い爪。私の目は金色に輝き、唸り声をあげながら彼女を見据える。
彼女が私の名前を呼ぶ。
それを合図に私は彼女に飛び掛る。彼女を押し倒し、その薄い胸に爪をめり込ませる。
彼女が悲鳴をあげる。
その喉に私は喰らいつく。そのまま噛み切る。彼女の鼻と口から血が溢れる。
夢中で他の場所も噛む。食べる。彼女の両親が現れる。悲鳴をあげる。
私は床を蹴って母親のほうに向かう。そのまま柔らかい胸を食い千切る。
驚いた父親が尻餅をついて、震えて私を見る。
父親の腹を裂いた。
一家3人をものの数分で仕留めて、私は再び彼女に圧し掛かる。
彼女の肉が一番甘くて美味しかった。満足するまで私は彼女を食べた。
私はそのままの姿で外に出た。
月を見上げる。不思議と力がみなぎってくるようだった。
そのとき私はまだ、私がどんな状態で、何をしたのか、よく理解していなかった。
だから、背後から劈くような悲鳴が聞こえたときは私のほうが驚いた。
『狼…狼よ!!誰かー!!』
狼?一体何のことだろう、そう思いながら私は悲鳴の主…花屋の娘に近づいた。
その途端、娘は逃げ出す。待って、そう思いながら私は追いかける。
私の足は早かった。あっと言う間に追いついた。
そして私は娘の足に噛み付く。それで転んだ娘の脇腹に噛み付いた。
娘が絶叫する。肺の辺りに爪をめり込ませると娘はひゅうひゅうと風の音をさせながらゆっくりと絶命した。
カンカン、と鐘が鳴る。火事のときや緊急時にしか鳴らない鐘の音。
なんだろう、と見上げる。
私を村の男たちが取り囲んでいた。
『子供の狼か…皆、やっちまえ!!』
雄叫びをあげながら、棒を持った男がそれを私に振り下ろす。
ぶたれる、そう思って目を硬く瞑った。
そのとき、狼の鳴き声が聞こえた。
目を開けると大きな狼が棒を持った男の喉笛を噛み切っていた。
一瞬の静寂のあと、残った男達は悲鳴をあげる。
散り散りに逃げ出すが、そのうちの何人かはその狼に食われてしまった。
いや、食われるというより殺されていった。
その狼は全く食事はせず、ただひたすらにその場にいる人間を殺していく。
『父さん…?』
私は思わず呟いていた。
姿は狼だったけれど、何故かそれはわかった。
そうしてようやく私は自分の姿を見下ろす。
毛むくじゃらな腕、鋭い爪、尻尾。
そう、私も狼だったのだと、漸く気づいた。
私は叫んだ。それはただの遠吠えとなって風に溶けて消える。
彼女を、彼女の家族を食べてしまった。
どうしてと叫ぶ。それは人の声を成さない。
目の前では狼の父親が次々と村人を殺している。
何が何だかわからず、私はこれは夢だ、夢なんだと硬く目を瞑って何度も何度も言い聞かせた。
震えている私に、銃口が向けられる。
それは村長だった。
引き金が引かれる。だが、それは私には当たらない。
父親が私を庇って撃たれた。
ゆっくりと倒れる父親を見て、村長は驚いた顔をしながらももう一度、と私に再度銃口を向ける。
その瞬間、物陰から飛び出してきた母親に食い殺された。
母親は家の中に隠れていた村人を殺しに行っていたらしい。
何度か左右を見回した後、父親の元に静かに歩み寄り、銃で撃たれた跡をそっと舐めた。
父親はそのときにはもう絶命していた。
『ニコル』
母親が私に呼びかける。
私はそっと目を開け、狼の姿をした母親に絶句した。
『満月を見てはいけないと、言ったでしょう』
母親は静かにそう言った。私を叱るようなことはなかった。
『あなたは…いえ、私たち家族は人狼の一族。あなたも自らの運命に覚醒してしまった。…これからあなたはもう人じゃなく、人狼として生き…』
母親の声を、銃声が遮る。
くる、と振り返った母親は銃を持った男に向かって走る。
男はもう一発撃つ。母親の足に当たる。
母親がその男の首に噛み付くのと、男が母親の心臓を打ち抜くのはほぼ同時だった。
二人が倒れ、静寂が訪れる。
いくら待っても誰も出てくる気配はない。
そう…あれが、最後の村人だったのだ。
私は泣いた。そして鳴いた。
どうしたらよいかわからず、どうしてこんなことになったのかわからず。
ただひたすら。
そしてそれを私は見下ろす。
そろそろこの夢も終わりだと思いながら。
――――――朝が訪れる。
顔を二、三度振り、私は洗面所に向かった。
鏡に映る私は、少女だった頃の私ではない。
大人になった私がいる。
「…………」
蛇口を捻り、顔を洗う。
淡々と。
そして服を着替え、皆のいる集会所に向かう。
「おはようございます、ニコラスさん。朝ごはんは食べましたか?」
「いや、まだだ」
「よかったー!……あっ、いえ。その、朝ごはん、ニコラスさんの分も作ったんです。よかったら食べてください」
「ああ…ありがとう。貰うよ」
柔らかいパンと、新鮮な野菜のサラダを口に運ぶ。
もう私は人の食事では味を感じない。腹も満たされない。
「美味しいですか?」
だが。
私は今、料理人の心を戴いている。それは確かに。
「美味しいよ」
「本当ですか!?よかった!」
料理人は笑う。
心から嬉しそうに。
私は思う。
料理人が美味しそうだと。
…相容れない。人と人狼は。
似ていても、その本質は全く違うから。
「ニコラスさん、実はですね。今日は襲撃がなかったんです!昨日処刑したトーマスさんが最後の人狼だったんですよ!」
「そうか」
「私たち、勝ったんですよ!」
「そうか」
「…ニコラスさん?」
「昨日、夢を見てな」
「…夢、ですか?」
「その夢を見るときはいつも朝まで目が覚めないんだ」
「……はあ…?」
「お陰で、襲撃に行くのを忘れた」
料理人の手を取る。
そうしてそのまま噛み切った。
「うあああ!?」
「残念だが……。私が最後の人狼だ。この村での最後の食事…ゆっくり味わうことにするよ」
私はもう、人を喰らうことに何の抵抗もない。
そうしないと生きていけないから。
ただ、初めての食事の記憶だけは私の心の奥深くに重く暗く根付いたまま。
「――美味しいよ」
記憶は夢となり何度でも私の中で蘇る。
まるで風が吹けば回り続ける風車のように。
私の生が続く限り。何度でも。
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